第19話 燻る火
その沈黙を破ったのは、シュナスだった。
「いっ……いくさって……戦争……いつ!? なんで……どこの国とですか!?」
椅子から立ち上がり真っ青な顔で慌てふためく弟を、レグルスは静かに見つめる。
「まさか、エルド帝国……」
後ろからミンタカの声が聞こえた。
その声が少し震えていることに、全員が気付いただろう。
「——流石に奴らも馬鹿ではない。ラディア一国で帝国に適うわけがないことくらいは分かっているだろう。 ……ご自慢の騎士団が、いかに猛者揃いだろうとな」
少し嘲笑気味に答える。
勢いよく置いたシュナスの手が、ガタンと机を揺らす。
「じゃあっ、どこと!? リウィド!? グローネル……!? だって、それらの国とは同盟を……」
シュナスがじっと見つめている前で、レグルスは一度目を閉じ、細く息を吐いた。
意図的に表情をほんの少し柔らかくして、弟の瞳を真っ直ぐに見る。
「……落ち着け。ここまでの話は全て推測にすぎない」
それでも最後に「今はまだ、な」と付け加える。
長椅子の背もたれに身体を預け、腕を組んだ。これ以上を語るには、まだ不確かなことが多すぎる。
シュナスは力を失ったように、すとんと椅子に腰を下ろした。
サリガンの狙い。レグルスはそれに薄々気づいている。
奴が進めているであろう準備は、間違いなく国防のためのものではない。国を護るというのなら、城壁をより強固なものにし、辺境騎士団に人材を集めて国境の警備を固め——まずはそれらのことに力を注ぐはずだ。
だが、今のところその気配はない。
(……どこかに攻め入るつもりだ)
五年前の戦は同盟国だったルブルム王国が帝国と手を結びラディアに侵攻してきたことが発端の、いわば防衛戦争だった。
ここ数年の平穏を自ら捨てて他国に攻め入る——それは、五年前の戦とは全く異質のものだ。
侵略戦争。それを、このラディアで始めようとしている。
だが——それをシュナスに聞かせるのはまだ早い。
(サリガンは他国との同盟を信じきって安心する男ではない。むしろ、あの男なら——)
かつて戦場で、父王の傍らには常にあの騎士の姿があった。王がその背中を預け、共に戦った英傑。全身を返り血で濡らしてなお、刃の鋭さが失われることはない。
獲物を見据えるような、侮蔑を含む視線。レグルスを嘲り見下す、あの眼光。
——あの男は、獣だ。
レグルスは机に肘を置き、重ねた両手を額に当てる。深く、長く息を吐いた。
「……何にせよ、ここで話し合っていてもあの男を止めることはできまい」
ゾズマが「ですな」と頷く。その隣のシュナスはどこか一点を見つめて呆然としていた。
本来なら守備隊から隊を編成し、すぐにでもシルヴェリス領に向かわせるべきだ。鉱山を鎮圧し、伯爵を捕らえ、住民を解放する。相手は戦後にあぶれた傭兵崩れの集まりだ、日々鍛錬を積んだ騎士達にとってそれほど脅威とはならないだろう。
だが、今のレグルスにそれほどの人数の騎士を動かすことは不可能だ。何よりも、まだサリガンにこちらの動きを知られるわけにはいかない。
(今下手に動いても証拠を消されて終わりだ。それに、また全てを奪われる——)
過酷な労働を強いられ、既に命を落としている者もいるだろう。それでも、選ばねばならない。
ゾズマもそれをわかっている。わかっているからこそ、彼らもまた気付かぬふりをして帰還したのだろう。領の窮状を伝える彼の拳が、強く握りしめられているのに気付いていた。この男の尽力にも、応えてやることができない。
「……ゾズマ。守備隊の中から、信頼できる騎士を四人。選べるか」
「はっ、お任せを」
ゾズマは胸に拳を当て、レグルスを真っ直ぐに見る。
その目に宿る光がわずかに強まったのは、恐らく気のせいではないだろう。
「して、そやつらに何を?」
ゾズマの短い問いに、レグルスは立ち上がると壁際の棚からそれらを取り出した。
「二人ずつに分かれ、それぞれこの場所へ向かうように伝えて欲しい。それからこちらの二人には、その家の者にこれを渡すようにと」
差し出したものは、二通の手紙と、一組の手袋だった。
「……!」
シュナスが身を乗り出し、目を真ん丸にしてレグルスを見た。
レグルスはわずかに笑みを浮かべる。
「しばらく休んでいた間、しっかり働いてもらわねば——な」
*
サリガンは扉を二度叩き、取っ手を下ろした。紫紺の塗装に金細工がびっしりと施された、絢爛な扉だ。
僅かに軋みながら、重厚な扉がゆっくりと開く。部屋に足を踏み入れると、淀んだ空気がサリガンに纏わり付く。
「失礼いたします、陛下」
背後にいた騎士が外から静かに扉を閉めると、低い音が空気を震わせた。
「……ラッセルか……」
掠れた、弱々しい声だった。
久しく呼ばれることのなかった己のその名に、サリガンは声の方向へと足を進める。
部屋の中央に置かれた大きな寝台の上に、男が横たわっていた。ラディア国第六十四代国王、アレクシアス・ラーセル・ダリス・ラディアその人だ。
金獅子王——彼はその二つ名を欲しいままに戦場を駆け抜ける、一騎当千の猛者だった。
恵まれた体躯で巨大な双剣を自在に操る、勇猛果敢な騎士。敵陣へと斬り込んでいくその姿に、敵兵は震えあがった。
ラディアの騎士たちは王に心酔し、誰もが忠誠を捧げた。
王の武勇は国境を越えて大陸中に響き渡り、民はまるで神話の英雄のように、その名を称えた。
だが、今や王にその面影はない。
頑強だった身体はやせ細り、骨に皮だけが張り付いている。
肋骨の浮き上がった胸が上下するたび、ひゅうひゅうと音が漏れる。
乾ききった唇は、微かに開かれたままだ。
サリガンは胸に拳を当てて敬礼をした。王の傍に寄り、膝を折る。
「お加減は如何でありましょう、陛下」
かつて敵と剣を交えては子どものように輝いていた瞳も、今は虚ろに宙を見つめている。
サリガンは目を伏せ、すぐに視線を戻した。
「ラディアは——変わりないか……」
アレクシアスの国を想う心は、幼少のころから傍にいたサリガンが誰よりも知っている。
知っているからこそ、サリガンは深く頷いた。
「……はい、ここアルカから果ては辺境まで、万事安寧の日々にございます。ひとえにこの泰平の世も、陛下の恩寵の賜物と言えましょう」
アレクシアスは力なく「ならばよい……」と答えた。そのまま止まってしまいそうなほど長い息を吐いて、ゆっくりとサリガンに顔を向ける。
「シュナスは……どうしている」
掠れた声が呼ぶ第二王子の名に、サリガンは目を細め、口角を上げた。
「シュナス殿下におかれましては、ここ数日これまで以上に剣の鍛錬に力を入れておいでのご様子。まるで陛下の再来と騎士たちも称えておりました」
誇らしげに語る忠臣の言葉に、王の口元が僅かに緩む。
アレクシアスは遅くに得た第二王子をとりわけ可愛がっていた。
強くあらんと剣を振る王子の青い瞳は、若き日の王を思わせる。
「あれは——」
サリガンの指先が、ピクリと動いた。
真っ直ぐにこちらを見据える、若き王太子の翡翠の瞳。
そこに宿る魔力と——忌々しいほどの、強い意志。
サリガンは唇を結び、拳を握り締めた。
ほんの僅かな沈黙の後、憂いの表情を浮かべる。
「……レグルス殿下は何やらお悩みのご様子。アルニラム殿のこともありましょう、塞ぎ込んでおられたと聞き及んでおります」
アレクシアスは再びゆっくりと天井に顔を向けた。目を閉じ、息を吐く。
「……そうか……あれには……苦労を掛ける」
言葉を絞り出すように、王は呟いた。震える右手を自らの顔の前に持ち上げて、ゆっくりと握り込む。
かつての姿を失った拳を、王も、サリガンもただ見つめていた。
「王妃さえ……生きて……」
そこまで言葉を発してから、王の呼吸が止まった。
掻きむしるようにして寝衣の胸元を掴む。
「陛下!」
サリガンが慌てて立ち上がり、王を覗き込んだ。びっしりと脂汗を掻き、寝台の上で身を捩る王の姿に息を飲む。
「お待ちを、侍医をお呼びします……!」
扉の方へと振り向いたサリガンの岩のような手を、アレクシアスが掴んだ。
驚いたサリガンの目が、痩せ細った王の手を捉える。
その瞬間に、王が勢いよく上体を起こした。サリガンが驚く間もなく、耳元で微かな王の声が聞こえる。
「許す……な……あれを……絶対に——! 許すな……!」
最早ハッキリと聞き取れぬほどの声。
骨と皮しか残っていないとは思えぬほどの力で、サリガンの手の甲に王の指が食い込む。
「もちろんでございます、我が王。……今すぐ、侍医をお呼びしますゆえ……」
サリガンは空いた右手を王の手に重ね、そっと自身の手を引き抜いた。王の身体を寝台に横たわらせると、そのまま早足で部屋の外に出る。
一瞥もせずに後ろ手で扉を閉めると、そのままの姿勢で俯き、大きく深く息を吸い込んだ。
「——閣下?」
扉の外に立っていた近衛騎士と王の侍従が、サリガンを怪訝な顔で見る。
サリガンは吸い込んだものをゆっくりと吐ききると、静かに言った。
「……陛下が発作を起こされた。すぐに侍医を」
「は、はっ!」
侍従は部屋に飛び込み、騎士が慌てて廊下を走っていく。
騎士の足音と金属音が遠ざかる。扉の前で俯きながら、サリガンは込み上げる何かを噛み殺した。
首筋を流れる汗の不快感に、思わず軍服の胸元を掴む。
その手の甲に残る指の跡に、空いた手を重ねた。
血走った瞳を見開き、虚空を睨みつける。
口角がつり上がる。食いしばり、ぎりりと奥歯が鳴る。
軍服を掴んでいた手が、そのまま握り拳に変わる。
敬礼したまま、サリガンは立ち尽くしていた。




