森を彷徨う者
一歩。
また一歩。
踏みしめる地面はぬかるみ、雑草が足に絡みついてくる。日差しは木々の隙間から漏れ、陰影の織り成す世界を照らしていた。
龍也は、一本の木の棒を杖代わりにしながら、深い森の中をさまよっていた。
「町……どこだ……」
呟いても答えはない。
風が木々を揺らす音。鳥の鳴き声。そして、時折どこかで木の枝を踏みつけるような、「ミシッ」という音。
それが魔物か、ただの動物かもわからない。
戦ったばかりのスライムとの交戦は、龍也にとって“異世界で生きる現実”を突きつけるものだった。魔法は使えず、頼れる武器もない。氷魔法も雷魔法も、今の自分にはただの「設定」に過ぎなかった。
「……体力、だいぶ削られてるな」
水筒もない。食料もない。
日本にいた頃は、空腹を感じる前にコンビニに行けば済んでいた。だが、ここにはコンビニどころか、人の気配すらない。
「師匠に言われたな。『人間が一番弱るのは、空腹と不安が一緒に来たときだ』って……」
脳裏に浮かぶのは、田舎での修行の日々。
日が昇る前から畑を耕し、山で薪を拾い、自然と向き合って鍛えた体と精神。
あの頃は、「なんでこんなことをやらされてるんだ」と思ったこともあった。
だが今、この世界で生き抜くためには——あれが必要だった。
(水……まずは水だ。空腹は我慢できても、脱水は命に関わる)
龍也は耳を澄ませた。木々を抜ける風に混じり、かすかな「ちょろちょろ」という音が聞こえる。
「川……?」
音の方向へ、慎重に足を進める。魔物の気配はまだ感じない。だが、油断はできない。
——それは、突然だった。
「ギャアア……!」
けたたましい叫び声が、森の奥から響いた。明らかに“人間”のものではない。
龍也の背中に冷たい汗が流れる。
(……やっぱり、森には魔物がいる)
恐怖と警戒が交差する中、龍也は物音を立てないようにしゃがみ、木の影に身を潜めた。手には、あのスライムを倒した時と同じ木の棒。心もとないが、素手よりはましだった。
やがて、茂みの向こうに「それ」は現れた。
猿のような姿だが、筋肉が異様に発達しており、目は血走っていた。
牙をむき出しにし、手に石のようなものを握りしめている。
「……あれって、エイプか?」
龍也はギルドの魔物知識が頭にないので、確信は持てないが、ファンタジーでよく見た姿に近いと感じた。
体長は1.5メートルほど。動きは素早く、力もありそうだ。
(今の俺じゃ、勝てない……!)
足音を殺しながら、龍也は静かに後退を始めた。木の間を縫い、落ち葉を踏まないよう注意しながら、ゆっくりと、後ずさる。
だが、森はそれほど甘くはなかった。
「バキッ!」
後ろの枯れ枝を踏み抜いた。
「ギャアアアッ!」
エイプがこちらを向く。
——目が合った。
「……ちくしょう!」
龍也は踵を返して全力で駆け出した。
(今戦ったら……確実にやられる!)
エイプの叫び声が背後から追ってくる。木々をすり抜けながら走る。訓練された体が今、命を繋いでいた。
「うおおおおおおおおおおおおっ!!」
全力で駆け続けた。
地形の高低差、木の根っこ、落ち葉の滑り——すべてがトラップになるこの環境の中で、数秒でも遅れれば、命を落とす。
(追ってきてるか?)
ちらりと後ろを見る。エイプは森の中を縦横無尽に跳ねながら、間合いを詰めてきていた。
(このままじゃ……!)
だが、次の瞬間——視界の先に、光が広がった。
「……空が開けてる!」
森が終わる——!
龍也は最後の力を振り絞って、木々の間を抜けた。
——そして、森を抜けた先。そこには崖があった。
「しまっ……!」
足が止まらない。斜面を滑り、地面が崩れる。
「ぐっ……あああああああっ!!」
転がる。土が顔に当たり、背中を打ち、腕を擦りむく。
だが——
「……は、はあっ、はあっ、はあっ……」
斜面の下で、龍也はようやく止まった。
後ろを見上げる。崖の上に、エイプの姿はなかった。追ってこない。斜面の急さを嫌ったのか、あるいは、それ以上の興味を失ったのか。
「……生き残った、か……」
龍也は顔を上げた。
——そこには、川が流れていた。
清らかな音を立て、緩やかに蛇行する透明な水。
光が反射し、そこには生命の気配があった。
「やった……助かった……」
膝をつき、川辺に手を伸ばす。
ごく、り。
冷たい水が喉を潤す。
生きている実感が、喉から胸にかけてじわりと広がっていった。
「ありがとう……水よ……」
その時、龍也は思った。
(魔法が使えなくても……俺には“生き延びる力”がある)
畑で培った観察力。師匠から教わった危機管理。剣術の反射。
どれもが、今の自分を生かした。
「町を……目指そう」
川沿いを下れば、いずれ人里に辿り着ける——そんな話を聞いたことがある。
今はそれを信じるしかない。
(まだ……何も成し遂げてない。だから、死ねない)
龍也は立ち上がり、川の流れる先を見つめた。
風が頬を撫で、森を背に、歩き出す。
彼の冒険は、ようやく“始まりの一歩”を踏み出したのだった。