最初の戦い
「――はぁ」
龍也は腰に手を当て、大きく息を吐いた。
鼻先を掠める、青々とした草の匂い。
頭の中は、未だに混乱の渦中にあった。
身体はこの状況を現実として受け止めているのに、心だけが、いつまでも夢の中を彷徨っているようだった。
つい先程まで、確かに道場の板張りの床の上にいたはずだった。
それが、次に気づいた時には、見知らぬ草原に仰向けに倒れていたのだ。
あの、耳の奥にまで直接響いてきた“声”の記憶さえ、今となっては、ひどく曖昧なものに感じられる。
異世界
本当に、来てしまったらしい。
「夢なら、痛みはないっていうけど……」
視線を落とせば、着ているのは、見慣れた道着姿のままだった。
龍也は拳を握ると、自分の頬を軽く殴ってみる。
じん、と小さな痛みが、確かに返ってきた。
夢ではない――身体が、そう告げていた。
足元には、土と草が入り混じった、柔らかな地面が広がっている。
遠くには小さな森が見え、その向こうには、山の稜線が薄っすらと浮かんでいた。
道着の懐や帯を、慌ただしく探ってみる。
財布も、携帯電話も、何一つ持ち合わせていない。
当然だ。道場で稽古をしていたのだから、荷物など持っているはずもない。
頼れるものは、この身一つと、これまで積み重ねてきた技だけ――そう思うと、不思議と、腹の底が据わっていく感覚があった。
――そして、目の前。
「……あれが、“魔物”ってやつか」
小さな、青い生物。球体のような形をして、ぴょん、ぴょん、と跳ねながら、こちらを窺っている。
まるで、アニメやゲームの中から抜け出してきたかのような姿だった。
だが、これはゲームではない。本物だ。
あれは、確かに――この世界の魔物。
テレビゲームでもお馴染みのスライム。
龍也の身体が、反射的に緊張を帯びる。
剣術を学んできた者として、相手がどんな存在であろうと、戦う覚悟だけは、常に持ち合わせているつもりだった。
「まずは……魔法、だよな」
頭の奥に、まだあの声の余韻が残っている。
――氷、雷、障壁。
三つの力を授ける。
だが、それは未完成のものだ。
「イメージが大事、って言ってたな……」
龍也自身、ゲームや小説の類は、厨二病を拗らせた少年らしく、しっかりと嗜んできた自負がある。
ならば、要領は分かるはずだ。
龍也は右手を前に突き出し、深く息を吸い込んだ。
(氷――水を凍らせるような、冷気の塊。鋭く、刺すような、氷の槍を……)
「……氷槍!」
――何も、起きなかった。
「……もう一度。落ち着け。呼吸を、整えて……」
龍也は目を閉じ、再びイメージを膨らませる。
空気中の水分を凍てつかせ、それが槍のような形を成し、収束した魔力が、解き放たれる瞬間を。
「――アイス・スピア!」
静寂。
風が、龍也の肩を撫でて通り過ぎていっただけだった。
「……マジかよ」
何度か試してみるが、まるで何の変化も起きない。
魔力を使うという感覚すら、掴めなかった。
手のひらの先に、熱も、冷気も、何一つ感じられない。
ただの虚しい掛け声だけが、草原に虚しく響くばかりだ。
(やっぱり、そう簡単にはいかないか……)
冷静に考えれば、当然のことだった。
何年もかけて剣を磨き続けてきた自分でさえ、一朝一夕で技を極められたわけではない。
まして、生まれて初めて触れる“魔法”という概念を、数分やそこらで扱えるようになるはずがない。
頭では、そう理解していた。
それでも、焦りは、じわじわと胸の内に広がっていく。
その間にも、スライムは、じりじりと距離を詰めてきていた。
最初は、ただ警戒しているだけかと思っていたが、今やその大きな丸い目は、明らかに“獲物”を見据えるものへと変わっている。
「……来るなよ?」
だが、その願いも虚しく、スライムはぴょんと跳ねると、龍也の胸へと体当たりを仕掛けてきた。
「うぐっ!?」
思いのほか強い衝撃に、龍也はよろめきながら後退する。
(ゲームの初期モンスターの癖に……いや、違う。これは、本物の――命のやり取りだ)
痛みと同時に、はっきりとした危機感が、胸を突き刺した。
剣もなければ、盾もない。
防具の一つすら、身に着けていない。
あるのはただ、自分の身一つと――地面に転がる、一本の木の棒。
龍也は、咄嗟にそれを掴み取った。
使い慣れた刀とは、比べものにもならない。
それでも今は、これが唯一の命綱だった。
心臓が、痛いほどに早鐘を打っている。
これまで打ち込んできたのは、あくまで型稽古だ。
目の前の敵が、本当に自分を殺しにかかってくる――そんな経験は、一度たりともなかった。
だが、退けば、次の瞬間には、あの体当たりが再び襲ってくる。
「……こっちも、覚悟を決めるぞ」
低く呟き、木の棒を構える。
手の中の粗末な木の感触が、不思議と、幼い頃に握った初めての木刀を思い出させた。
スライムが跳ねる。
龍也はそれを横に転がって躱すと、振り返りざま、木の棒を横薙ぎに払った。
「せいやっ!」
ぴしっ、と鈍い音が響く。
スライムの身体が大きく揺れるが、すぐさま体勢を立て直してしまう。
「効いてない……のか!?」
だが、怯む暇はない。
呼吸を整え、腰の落とし方、重心の移動――道場で叩き込まれてきた基本の型を、無意識のうちになぞる。
もう一撃。今度は、スライムの動きに合わせて、縦に棒を叩きつけた。
「うおおおっ!」
今度は、確かな手応えがあった。
スライムの表面がわずかに裂け、中からぬるりとした粘液が、飛び散っていく。
スライムが、苦悶するような声を発し、後退した。
「……よし、ダメージが入ってる!」
その一瞬の怯みを見逃さず、
龍也は攻撃の手を止めなかった。
さらに数度、渾身の力を込めて、木の棒を叩き込んでいく。
叩く、叩く、叩く。
まるで剣の素振りをするかのように、全身の反動を使って振るう。
地面を踏みしめ、腰を回し、腕を最後まで伸ばし切る。
天心流で幾千と繰り返してきた、あの動きだった。
(俺の剣術は……伊達じゃない)
最後の一撃を、スライムの中心目掛けて振り下ろす。
その身体が、ぶるりと大きく震えたかと思うと、もはや形を保てず、ぐしゃりと潰れるように崩れ落ちた。
そのまま、二度と動くことはなかった。
「……倒した、のか?」
警戒を解かぬまま、龍也はしばらくの間、様子を窺い続けた。
スライムは、既にぴくりとも動かない。
体液が地面に染み込み、その輪郭は、少しずつ闇へと溶けるように失われていく。
龍也は、木の棒を握りしめたまま、その場に膝をついた。
「……はぁ、はぁ……これが……異世界の、現実か」
肩が、激しく上下している。
全身に汗が滲み、心臓は、荒れ狂うように鼓動を刻み続けていた。
手のひらには、木の棒を握りしめすぎたせいで、幾筋もの赤い痕が刻まれている。
――今のは、紛れもなく、命を賭けた戦いだった。
たかがスライム一匹――そう笑う者もいるだろう。
だが、龍也にとっては、生まれて初めて味わう、正真正銘の死線だった。
「魔法……全然、使えねぇし……」
それでも、龍也は、思わず笑いを漏らしていた。
恐怖の中に、確かにあった昂揚。
積み重ねてきた鍛錬の技を、本物の“戦い”の中で、初めて振るうことができた。
その事実が、震える身体の奥に、小さな熱を灯していた。
「でも……悪くない。これが、俺の始まりだ」
龍也は立ち上がると、もう一度、空を仰いだ。
ちぎれた雲が、ゆっくりと、風に流されていく。
どこかに、人の住む町があるはずだ。
日本で鍛え上げてきた剣術があり、日本で学んできた知識がある。
そして、この異世界には、魔物に怯えながら暮らす人々がいる。
自分がすべきことは、まず、その場所を目指すことだ。
――そして、強くなることだ。
(剣を鍛えてきたのは……もしかすると、こういう時のためだったのかもしれないな)
龍也は、木の棒を腰の帯に差し込んだ。
目指すは、まだ見ぬ最初の町。
今はまだ、魔法一つ扱えない、無力な存在に過ぎない。
だが――だからこそ、伸びしろがある。
己にとっての“強さ”とは、一体何なのか――
あの神社の境内で、佐伯に問いかけた、答えの出ない問い。
大学のキャンパスで、いつまでも胸に居座り続けていた、あの虚無感。
その答えを、この世界で、必ず確かめてやる。
龍也は、木の棒を軽く握り直すと、しっかりとした足取りで、草原の中を歩き出した。




