最初の戦い
「はあ……」
龍也は腰に手を当て、大きく息を吐いた。草の香りが鼻をくすぐる。頭の中がまだ混乱している。身体は現実を認識しているのに、心がまだ夢を見ているようだった。
異世界。
本当に、来てしまったらしい。
「夢なら痛みはないって言うけど……」
自分の格好を見れば、修練時の道着姿。
そのまま拳を握って自分の頬を軽く殴ってみる。小さな痛みが確かに返ってきた。夢ではないと身体が告げていた。
足元には、土と草が入り混じる柔らかい地面。遠くに小さな森が見え、その向こうに山の稜線が薄く浮かんでいる。
——そして、目の前。
「……あれが、“魔物”ってやつか」
小さな青い生物。球体のような形状で、ぴょん、ぴょん、と跳ねながらこちらを見ている。まるでアニメやゲームに出てくるような姿だった。
だが、ゲームではない。本物だ。
あれは、確かにこの世界の魔物——スライム。
龍也の身体が反射的に緊張する。剣術を学んでいた身として、相手がどんな存在であれ、戦う覚悟はあった。
「まずは……魔法、だな」
頭の中には、あの声が残っている。
——氷、雷、障壁。三つの力を授ける。だが、それは未完成。
「イメージが大事って言ってたな……」
龍也もゲームや小説は厨二男子としてしっかり履修している。
龍也は右手を前に突き出し、深く息を吸った。
(氷……水を凍らせるような……冷気の塊……鋭く……刺すような氷の槍を……)
「……氷槍!」
——何も起きなかった。
「……もう一度。落ち着け。呼吸を整えて……」
龍也は目を閉じ、再びイメージを膨らませる。氷が空気中の水分を取り込み、槍のような形を成す。魔力が収束し、それが解き放たれる瞬間を。
「——アイス・スピア!」
静寂。
風が、龍也の肩を撫でて通り過ぎただけだった。
「……マジかよ」
何度か試すが、まるで何の変化も起きない。魔力を使う感覚すらつかめない。
(やっぱり、そんな簡単にはいかないか……)
その間にも、スライムがじりじりと距離を詰めてきていた。最初は警戒していただけだが、今やその大きな丸い目は、明らかに“獲物”を見据えている。
「……来るなよ?」
しかし、スライムはぴょんと跳ね、クロスの胸に体当たりしてきた。
「うぐっ!?」
思いのほか衝撃は強く、龍也はよろめきながら後退した。
(ゲームの初期モンスターの癖に。いや違う……これは、本物の命のやりとりだ)
痛みと同時に、危機感が胸を突き刺す。剣も盾もない。防具もない。あるのは自分の身体と、地面に転がる——木の棒。
龍也は咄嗟にそれを掴んだ。刀とは比べものにならないが、今はこれが命綱だ。
「……こっちも覚悟決めるぞ!」
スライムが跳ねる。龍也はそれを横に転がって避けると、振り返りざまに木の棒を横に薙いだ。
「せいやっ!」
ぴしっ、と鈍い音が響いた。スライムの身体は揺れるが、すぐに体勢を立て直す。
「効いてない……のか!?」
もう一撃。スライムの動きに合わせて、縦に棒を叩きつける。
「うおおおっ!」
今度は確かな感触があった。スライムの表面がわずかに裂け、中からぬるりとした粘液が飛び散った。
スライムが苦悶のような声を発し、後退する。
「……よし、ダメージ入ってる!」
龍也は攻撃を止めず、さらに数度、渾身の力を込めて叩き込んだ。
叩く、叩く、叩く。まるで剣の素振りのように、全身のバネを使って振るう。地面を踏みしめ、腕を伸ばす。
(俺の剣術は……伊達じゃない!)
最後の一撃をスライムの中心に振り下ろすと、その身体がぶるりと震え、形を保てなくなった。ぐしゃりと潰れるように崩れ落ち、スライムは動かなくなった。
「……倒した、のか?」
警戒しながらも、しばらく様子を伺う。スライムはもう動かない。体液が地面に染み、しだいに輪郭を失っていく。
龍也は木の棒を手にしたまま、地面に膝をついた。
「……はぁ、はぁ……これが……異世界の現実か……」
彼の肩は激しく上下していた。身体中に汗が滲み、心臓は荒れ狂ったように鼓動している。
——これは、命を賭けた戦いだった。
「魔法……全然使えねえし……」
けれど、彼は笑っていた。
恐怖の中にも、どこかにあった昂揚。鍛錬で得た技を、本当の“戦い”で使うことになった。
「でも、悪くない……これが、俺の始まりだ」
龍也は立ち上がり、もう一度空を仰いだ。雲がゆっくりと流れていた。
どこかに人の住む町があるはずだ。日本で研鑽した剣術があり、日本で学んだ知識がある。そして、この異世界には魔物に怯える人々がいる。
自分がすべきことは、まずそこへ行くこと。
——そして、強くなることだ。
(剣術を鍛えてきたのは、こういう時のためだったのかもしれない)
龍也は、木の棒を腰に差し、歩き出した。目指すは、最初の町。
今はまだ魔法すら使えない無力な存在だ。しかし、だからこそ、成長できる余地がある。
己の“強さ”とは何か——
この世界で、確かめてやる。