世界の声
——意識が、沈んでいく。
底のない海のような暗闇。音もなく、感触もない。ただ、存在だけが浮かんでいた。思考が途切れることはなく、しかし身体の感覚は一切なかった。
黒須龍也は、自分が「落ちた」ことを覚えている。あの、ねじれた空間の中で、物理法則が崩壊し、時間の流れすら失われた中、確かに自分は世界の外側に弾き出された。
そして今、自分がどこにいるのか分からない。死んだのか、それともまだ生きているのか。
そんな疑問すら、深い沈黙の中では意味を成さない。
——そこに、声があった。
いや、厳密には「声」ではない。けれど確かにそれは、龍也の思考の奥深くに届く「言葉」だった。
「ようやく、届いたか」
その存在は、音も姿も持たない。だが、龍也の全身を貫くように響いたその感覚に、彼ははっきりと「意志」の存在を感じた。
「お前の魂は、強く、純粋で、歪んでいる」
「だがそれでいい。不完全であることこそが、人という種の可能性だ」
「……誰だ」
龍也は、声にならない声で問う。口は動かず、声帯も振動していない。それでも、想いが伝わる場所——そういう空間だった。
「我はこの世界を見守る者。名を持たぬ存在。人の言葉で言うならば“神”とでも呼ぶがいい」
「だが我は、干渉することはない。ただ、観る。可能性が芽吹くのを待つ」
「なぜ、俺をここに……?」
「必要だった。お前のような者が」
神の“声”は、龍也の記憶の深層に触れるように流れ込んでくる。
「我が創りし世界——そこは、かつて調和の地だった。人、魔、精霊、獣。すべてが均衡を保ち、互いに交わらぬまま生きていた」
「だがある時、均衡は破れた。力を持ちすぎた“魔物”が想定を超えて繁殖し、世界は分断された」
「町と町が繋がらず、知は止まり、文明は鈍化した」
「我は干渉しない。ただ見守る。だが、この均衡の崩壊は——“退屈”と口にした我が代行者の愚行による」
龍也は、思考を巡らせた。魔物、均衡、退屈、そして“代行者”。
「……お前の代行者が、世界を壊した?」
「そうだ。かつて我が眼として世界を観ていた者——その一柱が、魔物に力を与えた。面白さのために。争いを起こすことで、世界が変化すると信じて」
「それは神の役目を逸脱した。我は彼からすべてを奪い、人として世界に堕とした。だが、彼はなおも世界に干渉しようとしている」
「お前は、歪んだこの世界にて“選ばれた者”ではない。ただ——“見極める者”として、その地に降りる」
「……選ばれてない?」
「そうだ。お前は特別ではない。だが、お前の歩む道が、この世界を変えるかもしれない。いや、変えないかもしれない。ただ、それを見たいのだ」
「力を与える。だがそれは未完成だ。使うも育てるも、お前次第」
その瞬間、龍也の中に熱と冷気と、透明な壁のような感覚が入り込んだ。
——氷。雷。そして、障壁。
そのどれもが不完全で、ぼんやりとしたイメージしか湧かない。それでも確かに、龍也の精神に刻まれていた。
「これが……魔法か……?」
「魔法とは想いの結晶。イメージこそがすべて。理解と修練が、その力を解き放つ鍵となる」
「お前の力は、氷と雷、そして障壁。この世界では未だ誤解され、軽視される力だ。だが、お前の成長次第で、その常識は覆るだろう」
「忘れるな。力とは、誇るものではない。試されるものだ」
その言葉を最後に、神の声は霧のように消えた。
——そして、視界が開けた。
真っ青な空。冷たい風。緑の香り。
龍也は、草むらに倒れていた。そこは、明らかに“異なる世界”だった。
目の前を小さな青い生物が跳ねていく。それは、ゲームや物語の中でしか見たことのない、スライムのような魔物だった。
「……マジかよ……本当に……異世界……?」
現実離れした風景の中、龍也の異世界での人生が、今、始まろうとしていた。