強さの意味
午後四時――斜陽が大学のキャンパスを、燃えるような黄金色に染め上げていた。
黒須龍也は、講義を終えたばかりの学生たちの喧騒から、半歩だけ距離を置くようにして歩いていた。
広い歩幅、常に伸びた背筋。
それは、剣士としての矜持を、日常の所作にまで刻み込んできた証だった。
もっとも、龍也は剣道部には籍を置いていない。
彼が幼い頃から学んできたのは、日本に古くから伝わる実戦剣術――「天心流」という、無名に近い古流だ。
一本を競うスポーツとしての剣道とは、根本から一線を画す、実戦に根差した技の体系である。
田舎に暮らす祖父の紹介で、その道場の門を叩いたのは、まだ小学生の頃だった。
稽古を通じて教えられたのは、単なる刀の扱い方だけではない。
「武」とは何か。
「強さ」とは何か。
そして――それが「暴力」と、どう違うのか。
もっとも、その答えに、今もって辿り着けたとは言い難い。
大学に進学し、都会で一人暮らしを始めてから、龍也の胸の内には、ある種の虚無感が根を張り始めていた。
自分は、一体何のために剣を振るってきたのか。
この鍛錬の日々に、果たして意味はあるのか。
暴力が忌避され、争いを避けることこそが美徳とされる、この現代社会において――力を持つことに、一体どんな価値があるというのか。
――強くなって、どうする。
その問いだけが、いつまでも、彼の胸の奥に居座り続けていた。
大学からの帰路、龍也は回り道をして、いつもの神社に立ち寄った。
繁華街から少し外れた場所にひっそりと佇む、古い社。
人影もまばらな境内には夕日が差し込み、朱塗りの鳥居を、燃えるような赤黒い色に照らし出していた。
「やあ、黒須君。今日も来たのかい」
社務所の縁側に腰掛けていたのは、この神社の神主――佐伯だった。
四十代半ばながら、その落ち着いた佇まいと穏やかな口調は、実際の年齢よりもずっと老成した印象を与える。
龍也がこの神社に足繁く通うようになってから、自然と言葉を交わす仲になっていた。
「はい。少し、考え事があって」
「剣のことか?」
「……ええ。強くなりたいと思って、鍛錬を積んできたつもりでした。でも、最近、分からなくなってきたんです。強さとは、一体何なのか。誰かを傷つけるための力じゃない――頭では、そう分かっているつもりです。ですが、いざ自分の内側から“怒り”や“恐れ”が湧き上がってきた時、それを御しきれない自分がいる」
佐伯は一瞬、目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
「強さというのはな、他者を制する力だけを指すものじゃない。己を制する力もまた、強さのうちだ。……もっとも、それがどれほど難しいことか、私も年を重ねて、ようやく少しばかり分かってきたに過ぎんがね」
「……俺には、まだ分かりません」
「それでいい。若いうちから分かってしまっては、学ぶことがなくなる。道の先に“答え”があると信じていれば、たとえ迷っていようと、歩みを止めずに済むものだ」
その言葉に、龍也は、僅かに肩の力が抜けるのを感じた。
神社を後にする頃には、空には既に星が瞬いていた。
街の喧騒は遠く、冷たい夜風が頬を撫でていく。
その夜、龍也は一冊の古ぼけたノートを取り出すと、ページの片隅に、こう書き記した。
「力とは、何のためにあるのか」
その一文を最後に、彼はペンを置いた。
翌朝、龍也は久方ぶりに実家へと電話をかけた。
師である嶺木宗次郎が体調を崩したという知らせを、母から聞いたばかりだったからだ。
「お前のことは、あの人、いつも気にかけてるよ。あんなに厳しかったのに、今じゃ近所の子どもたちに、木刀の握り方を教えてるんだから」
「……あの人らしいですね、変わらず」
「それが嶺木さんよ。でもね、本当に嬉しそうだったの。龍也が都会でも剣を続けてるって話したら、鼻の穴を膨らませてねぇ。誇らしげだったわよ」
電話を切った後、龍也はしばらくの間、無言で天井を見つめていた。
脳裏に浮かぶのは、あの師範の広い背中だ。
「剣を学ぶ者が恐れるべきは、他人の強さではない。己の弱さだ」
その言葉が、今もなお、彼の心の奥底に、深く突き刺さったままだった。
その日の夕方、龍也は再び、道場へと足を運んだ。
大学の課題は山積していたが、それよりも今は、剣を振るうことの方が、余程必要だった。
道場の板張りの床は冷たく、張り詰めた空気が、肌を刺すようだった。
木刀を握る手に、自然と力が籠る。
「――一刀正伝、天心流。型、一」
声を発しながら踏み込み、袈裟に振り下ろす。
打ち下ろすたびに、思考に立ち込めていた霧が、少しずつ晴れていくようだった。
筋肉は悲鳴を上げていたが、その痛みすら、どこか心地よい疲労感として、体に染み渡っていく。
「俺は――まだ、終わっちゃいない」
自分自身に言い聞かせるように呟いた、その刹那だった。
目の前の空間が、ぐにゃりと歪んだ。
「……え?」
視界が大きく揺れる。
歪みはやがて渦を巻き、空間そのものをねじり上げていく。
床も、壁も、天井も――まるで万華鏡の内側に放り込まれたかのように色彩を失い、重力の向きすら定かではなくなっていく。
「な、何だ、これは……!」
足元が、音もなく崩れ落ちた。世界が、反転する。
落ちていく――そんな感覚だけが、全身を包み込んでいた。
光もなく、音もない。あるのはただ、自分という存在の輪郭だけ。
そして、次の瞬間。
黒須龍也の姿は、現代日本から――忽然と、消え失せていた




