小さな村の大きな決意
序章10話
まだ肌寒い空気が、クロスの頬を静かに撫でていく。
ギルドの敷地に立つ彼の足元には、夜露を含んだ土の感触が、しっとりと広がっていた。
クロスは目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込む。
グレイに教わった、魔力循環の呼吸。
吸って、巡らせて、吐く。
それを何十回と繰り返しながら、掌の中心へと意識を集めていく。
じんわりと、熱を帯びる感覚。
だが、それだけだった。
火も、風も、氷も、雷も、現れはしない。
(今日も、ここまでか)
小さく息を吐き、クロスは目を開けた。
掌を見つめる。
何もない、ただの手だ。それでも、最初の日には感じ取れなかった熱が、確かにそこにある。
それだけは、紛れもない前進だった。
この世界に来てから、もうすぐ二週間になる。
神との邂逅。
スライムとの死闘。
エイプからの逃走。
マルコとの出会い。
そして、ギルドでの訓練と講習。
二週間という時間に詰め込むには、あまりにも濃密な日々だった。
講習は、昨日で一通り終わった。今日からは、仮登録冒険者としての、本当の生活が始まる。
だが――。
「村の仮登録者って、珍しいんだな……」
小さな溜息と共に、クロスは、昨日ギルドの受付嬢リサから聞いた話を、思い出していた。
講習の修了手続きを済ませた時のことだ。
淡い緑色のベストを着たリサは、書類に丁寧な筆跡でクロスの情報を書き込みながら、ふと口を開いたのだった。
「ベルダ村のような、人口五百にも満たない小村に、ギルドがある理由は分かる?」
「……周囲に、魔物が多いから、ですよね」
「そう。守るために必要な最低限の戦力として、ここに置かれているの。だから、登録者自体も、ごく少数なのよ」
リサは羽ペンを置き、少しだけ遠くを見るような目をした。
「町や街なら、仮登録の新人も、毎年何十人と入ってくるわ。でもこの村で仮登録されるのは……そうね、数年に一人いるかいないか、ってところかしら」
「ここで登録して、そのまま村に残る人が、多いんですか?」
「八割は、村の出身者よ。皆、この村で生活していくことを前提にしているの。外に出るのは、二割くらい。……でも、その人たちも、大抵は数年後に、村へ戻ってくるわ。田舎の暮らしに慣れていると、町や街の喧騒は、どうにも合わないみたい」
その言葉には、寂しさでも呆れでもない、淡々とした現実の受け止めが滲んでいた。
(……俺みたいに、村の外から来て、しかも身寄りもない人間なんて、本当に稀なんだろうな)
クロスは木製のベンチに腰を下ろし、昇り始めた朝陽を浴びながら、思案を巡らせた。
ミトも、ガイルも、エルも、皆この村で生まれ育った者たちだ。
帰る家があり、迎えてくれる家族がいる。
この村で暮らし、この村を守るために剣を取る。その在り方には、一片の迷いもなかった。
(俺には……帰る場所が、ない)
あの世界へ戻る道筋など、今は影も形も見えない。
ふと、師匠の顔が浮かんだ。
体調を崩したと、母から聞いたばかりだった。
電話越しに聞いた、あの母の声。
あれが、最後になるのだろうか。
確かめる術すら、もう自分にはない。
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
だが――。
だが、胸の奥には、確かな火種があった。
森で生き延びたこと。
スライムに勝ったこと。
マルコに、手を差し伸べられたこと。
ミトたちと肩を並べて、初めて魔物を倒せたこと。
この世界で、初めて“誰かに認められた”と感じたこと。
そして、あの神の言葉。
――力とは、誇るためのものではない。
試されるためのものだ。
あの声が、自分の何を見極めようとしているのかは、まだ分からない。
だが少なくとも、立ち止まっていては、何も試されはしない。
大学のキャンパスで、いつまでも胸に居座り続けていた、あの問い。
――強くなって、どうする。
答えは、まだ出ていない。
けれど、今のクロスには、ほんの少しだけ、その輪郭が見えてきたような気がした。
自分の足で立つ。
受けた恩を返す。
そして、理不尽に何かが奪われそうになった時、手を伸ばせる自分になる。
(まずは、そこからだ)
(俺は強くなる。力の意味を、この世界で知るんだ)
その決意だけは、誰にも譲れなかった。
その日、クロスが最初に受けた依頼は、村外れの農家の手伝いだった。
仮登録者に許されているのは、雑用や、危険の少ない補助的な依頼ばかり。
魔物の討伐に出られるのは、まだ先の話だ。
「あんたが、ギルドの新入りかい。じゃあ、そこの畑の草むしりと、土起こしを頼むよ」
老農夫に鍬を渡され、クロスは畑に立った。
鍬の柄を握った瞬間、掌が、あの日々を思い出した。
剣術の合宿で訪れた、山奥の田舎。
夜明け前から畑を耕した、苦行のようだった日々。
土を起こし、根を抜き、汗を拭う。
単調な作業を黙々と続けるうちに、頭の中の雑音が、少しずつ静まっていく。
「ほう、手際がいいじゃねぇか。どこで習った」
「……昔、少しだけ、畑仕事を」
「そうかい。ここいらの若ぇもんより、よっぽど様になってるぜ」
日が傾く頃、老農夫は、銀貨を二枚、クロスの掌に載せた。
「ほら、今日の駄賃だ。ご苦労さん」
銀貨二枚――二十ルム。
軽い、ほんの小さな金属の感触。
それなのに、その重みは、不思議なほど胸に染みた。
(自分の手で稼いだ、この世界での、最初の金……)
宿代が、一泊十ルムから十五ルムほど。
一日働いて、ようやく一晩の寝床と、パンとスープにありつける程度だ。
そう考えれば、この世界で食べていくということが、どれほど骨の折れることなのか、身に染みて分かる。
マルコから預かった革袋には、講習の費用と、あの剣を買うのに使った分を除いて、手をつけていない。
あれは「投資」だと、あの人は笑って言った。
その信頼に応えるまでは、軽々しく使っていい金ではない。
クロスは銀貨を握りしめ、茜色に染まり始めた空を見上げた。
夕暮れ時、クロスは村の宿屋の扉を押した。
講習期間中に借りていたギルドの宿舎は、昨日で期限が切れている。
今日からは、マルコに連れられて初めて泊まった、あの宿屋に部屋を借りることにしたのだ。
「あら、講習終わったんだってね。おめでとう」
宿の女将が、前掛けで手を拭いながら、顔を出した。
「ありがとうございます。今日から、また部屋をお願いしたいんですが」
「もちろんだよ。さあ、今日は特別に卵を追加しておいたから、しっかり食べて」
宿代の十ルムを払うと、掌には、銀貨が一枚だけ残った。
食卓に並んだのは、焼いた野菜とパン、そして、珍しくふんわりと焼かれた卵焼き。
湯気と共に立ち上る、ほのかに甘い香り。
クロスは箸ならぬ匙を取り、一口、口に運んだ。
――どこか、懐かしい味がした。
実家の朝の食卓が、不意に脳裏をよぎる。
味噌汁の匂い。
母の声。
何気ない、ありふれた朝。
あの頃は、それがどれほど尊いものなのか、考えもしなかった。
目頭が、じんと熱くなる。
クロスは匙を止め、静かに息を整えた。
ここで泣くわけにはいかない。
泣いたところで、何も変わらないことは、よく分かっている。
(この村で、もう少し頑張ってみよう)
今日でようやく、スタートラインに立てた気がする。
正式登録という、小さな目標。
その先に、自分の答えがあると信じて――。
最後の一口まで、クロスはゆっくりと、噛みしめるように、食べ続けた。
序章終了
次まで村で活動予定




