村での仕事
薄曇りの空の下、クロスは朝の空気を、胸いっぱいに吸い込んでいた。
ここベルダ村に来て、二週間と少し。
ギルドの講習と訓練はすべて終わり、今は仮登録冒険者として日々の依頼をこなしながら、正式登録を目指す毎日だ。
「クロス君、今日は東の畑の整備手伝いかい?」
ギルドで仕事を受けたクロスに、顔なじみの先輩が声をかけてきた。
金髪で快活な青年、カイン。
背には使い込まれた短弓を背負っている。
村育ちだけあって、土地勘にも人間関係にも明るい男だ。
「そうです。案内してもらえますか?」
「もちろん。しかし、君もすっかり村の婆様たちに人気らしいな。仮登録にしてはよく働くって評判だぞ。」
「……お年寄りに気に入られてもなあ」
クロスは肩をすくめて苦笑した。
だが内心では、ほんの少しだけ誇らしい。
この世界に来てからの日々で、「自分にも、ここで何かができる」という手応えが、少しずつ形になり始めていた。
カインと並んで歩く村道は、石畳ではなく、土を踏み固めただけの道だ。
ところどころぬかるみ、靴底にまとわりつく。
風に乗って、干し草と牛舎の匂いが漂ってきた。
都会で暮らしていた頃には、決して嗅ぐことのなかった匂い。
けれど今は、あの剣術の合宿で過ごした山奥の村と重なって、不思議なほど懐かしく感じられた。
ベルダ村は、山と森に囲まれた小さな農村だ。
地形のおかげか、大型の魔物が入り込むことは稀だという。
それでも小型の魔物の活動は活発で、だからこそ、こんな小さな村にギルドの支部が置かれている。
とはいえ、正式登録者は三十人ほど。
仮登録の冒険者など、クロスが来るまで、ほとんどいなかったらしい。
村人たちは基本的に自給自足で暮らし、作物を育て、村を守るために若者がギルドに登録する。
活動の場は村の周辺が中心で、外へ出る者は稀。
出たとしても、いずれは村へ戻ってくるのが常――受付のリサは、そう話していた。
(皆、帰る場所がある。……だったら、俺は)
ふと、そんな考えが胸をよぎる。
(俺は、いつかこの村を出ることになるんだろうか。そして、その先に、帰る場所はあるんだろうか)
答えの出ない問いを、クロスは静かに飲み込んだ。
「ここだ」
カインが足を止めた。
目の前に、小さな畑が広がり、数人の農民が作業の支度をしている。
「今日はここで、土起こしと水路の整備だ。俺は向こうの区画だが、クロス君は、この婆様たちのグループに入ってくれ」
「了解です」
頭を下げ、鍬と桶を受け取る。
使い込まれた木の柄が、掌にしっくりと馴染んだ。
午前中は、畑の土起こしだった。
重い鍬を握りしめ、黙々と土を掘り返していく。
体力にはそれなりに自信がある。
日本では剣術の鍛錬を欠かさず、基礎は厳しく叩き込まれてきた。
単調な力仕事で音を上げることはない。
振り上げ、落とし、引く。
その繰り返しは、どこか素振りに似ていた。
呼吸が整い、足の運びが定まるにつれ、頭の中の雑音が、少しずつ静まっていく。
「おお、いい腰の入り方じゃのう。鍛えとるな、兄ちゃん」
声をかけてきたのは、作業を見ていた老いた農婦だった。
顔には深い皺が刻まれているが、眼光は鋭く、芯の強さを感じさせる。
「昔、身体を鍛えていたので、こういう作業には慣れてます」
「そりゃ助かるわい。若いもんでも、腰を壊して畑仕事を嫌がる奴が多くてな」
「道具の使い方のせいもあると思います。こういうのは、力じゃなくて、姿勢とリズムなんです」
クロスは実際に鍬を構え、腰を落とし、体重を乗せて振り下ろしてみせた。
師匠に何百回と叩き込まれた「動きの基本」が、こんな場所でも役に立っている。
そのことに、自分でも少し驚いた。
「なるほどのう……これはええこと聞いたわ」
農婦たちは感心したように頷き、見よう見まねで、クロスの動きをなぞり始める。
その光景に、胸の奥が、ほんのりと温かくなった。
剣術は、人を斬るためだけの技ではない。
理に従えば、力は少ない労力で、確かな成果を生む。
あの日、問い続けていた「強さ」の欠片を、土の上で拾ったような気がした。
昼になると、農婦たちが蒸かした芋を分けてくれた。
「兄ちゃん、どこの生まれじゃ。見ん顔じゃが」
「……遠い辺境の村です。もう、身寄りもなくて」
「そうかい。そりゃ難儀したのう」
それ以上、誰も深くは訊いてこなかった。
ただ、湯気の立つ芋を、黙ってもう一つ、掌に載せてくれる。
素朴な優しさが、じんわりと染みた。
同時に、嘘をついている後ろめたさが、ちくりと胸を刺す。
(……いつか、本当のことを話せる日が来るんだろうか)
クロスは、熱い芋を静かに頬張った。
午後は、水路の泥さらいだった。
森の奥から引かれた水路が、畑に水を供給している。
雨季明けには、泥や落ち葉が溜まって詰まりやすく、定期的な掃除が欠かせないのだという。
「よし、ここを少し掘れば、流れが戻るはず……」
膝まで水に浸かり、クロスは手桶で泥を掬っては、脇へと寄せていく。
冷たい水が、足の疲れを洗い流してくれた。
数人の若者と声を掛け合いながら作業を進め、やがて――ごぼり、と詰まりが外れる音がした。
澄んだ水が、堰を切ったように流れ出す。
「おおっ、通ったぞ!」
若者たちから、小さな歓声が上がった。
クロスも、思わず笑みをこぼした。
あの森で、一杯の川の水が、自分の命を繋いでくれた。
今度は、自分の手で、誰かの畑へと水を繋ぐ。
そんな小さな巡り合わせが、妙に嬉しかった。
作業が終わる頃には、日も傾き始めていた。
泥まみれの服のまま、クロスはギルド支部に立ち寄り、報酬の確認と、次回の依頼の相談を済ませる。
「お疲れさま、クロスさん」
カウンターの向こうで、リサが柔らかく微笑んだ。
「今日もよく働いてくれたな、クロス。評判いいぞ」
声をかけてきたのは、もう一人の受付、ゴルだった。
小柄な中年の男だが、元冒険者らしく、眼差しが鋭い。
差し出された銀貨は、二枚。二十ルムだ。
日本の感覚に直せば、数千円ほどだろうか。
それでも、この村では、一日の糧として十分な価値がある。
「ありがとうございます。でも、まだ討伐依頼は一度も受けていませんから」
「まあ、村じゃ小型魔物くらいしか出ねえからな。だが、地道に積み上げてるのは悪くない。いざという時の信頼ってのは、こういう日々から生まれるもんだ」
「……そう、ですね」
クロスは小さく頷き、銀貨を握りしめた。
この小さな重みが、確かな「居場所」になっていく。
そんな予感が、胸の奥で静かに膨らんでいた。
その夜
借りている風見草亭の小さな部屋で、クロスは剣を膝に置き、静かに目を閉じていた。
(あの世界で学んだ剣術も、こっちの剣とは、勝手が違うな)
この世界では、刀をほとんど見かけない。
剣といえば、大半が両刃の西洋風のものだ。
クロスが購入したのは、比較的軽量な片手剣。
それでも、振り方や体の使い方には、まだ違和感が残る。
訓練を重ねてだいぶ慣れたとはいえ、「自分の武器」と呼ぶには、まだ遠い。
(刀があれば、とは思うけど……贅沢は言ってられないな)
右手で柄を握り、左手を添えるように柄頭へ置く。
「一歩、踏み込み……切り下ろす」
小さく呟きながら、ゆっくりと動作をなぞる。
道場での鍛錬が染みついている分、異なる武器に順応するには、時間がかかる。
それでも、確かな実感があった。
少しずつ、だが自分は、この世界に馴染み始めている――と。
剣を置き、掌を上に向ける。
教わった呼吸で魔力を巡らせると、掌の中心が、じんわりと熱を帯びた。
まだ、それだけ。
けれど、その小さな熱は、昨日よりも少しだけ、確かな温度をしていた。
明日もまた、依頼を受け、村のために働く。
戦いの日々ではない。
だが、こうした穏やかな日常こそが、クロスにとっての“強さの意味”を問う、最初の一歩なのだと、彼は思った。




