第十章:『手拭いと怒号』
「さあ、これで身体を拭こう」
私は部下が置いていってくれたお荷物の中から、温水の入った重い薬罐を手に取り、ブリキのタライへと静かに湯水を注ぎ入れた。そして、そこに支給されたばかりの真っ白な手拭いを浸す。狭い掘立小屋のなかに、じわりと温かい湯気が立ち上り、私の張り詰めた顔を心地よく包み込んでいった。驚いたことに、部下たちは私のために、貴重な石鹸まで用意してくれていたのだ。
手拭いから漂う、清潔な石鹸の懐かしい匂い。私は入浴が何よりも大好きだった。満州の夏の酷暑と地下室の冷気、あるいは多汗症による激しい発汗で汚れきっていた身体を、この温かい湯水で清められるのだと思うと、私はこの上ない充実感に満たされ、冷徹な仮面の裏側で、ほんの一瞬だけ、心からの至至福の表情を浮かべていた。
だが、そんな私の幸福なまどろみを、隣からの冷徹な視線が一瞬で叩き潰した。寝台の上のアマソワ中佐は、私の締まりのない顔を蛇のようにじっと睨みつけると、夜の静寂を完全に引き裂くような大音量で絶叫したのだ。
「――これの何処がシャワーなのよ!?」
あまりの凄まじい怒鳴り声に、私は頭を抱え、文字通り鼓膜が破れるかと思った。タライの湯水が彼女の怒気で細かく震えている。ここは最悪の伝染病の疑いで隔離されている、最も不気味な掘立小屋だ。何をそんなに堂々と怒り狂っているのだと、私は再び唖然とさせられるしかなかった。
しかし、その中佐の猛烈な怒号が小屋の外へと響き渡った瞬間、私は心の中で、彼女のこの自由奔放な気性がもたらした、完璧な防衛のやり方に気づいていた。外で銃を構え、涙を流しながら見張っている部下の伍長たちは、この小屋の中から響く女の悲鳴と怒鳴り声を聞いて、こう確信したはずだ。「岡田軍曹殿は、ご自身がコレラに冒されながらも、あの頑強な女スパイの口を割らせるために、命懸けの凄惨な尋問を今なお続けていらっしゃるのだ」と。私への畏敬の念は、彼らの頭の中でさらに確固たるものへと変わり、誰一人としてこの小屋の中を覗き込もうとする者はいなくなる。
だが、中佐の怒りは収まらなかった。彼女はまるで「青鬼」のような恐ろしい形相で行く手を阻むように立ち上がり、私を上から激しく睨みつけた。国家保安人民委員部を率いる高級将校としての、剥き出しの凄まじい威圧感。私はその圧倒的な迫力に完全に気圧され、タライの横で無様に床へ尻餅をついてしまった。私の不甲斐ない姿を見下ろした中佐は、呆れたようにふんと鼻を鳴らすと、寝台の上へどかと乱暴に腰を下ろし、私にその細い背中を向けた。
「……あなたが、私の背中を拭いて」
彼女は事も無げにそう言い放つと、躊躇することなく自らの軍服の上衣を脱ぎ捨て、一瞬にして下着姿になった。
私は床に尻餅をついたまま、完全に硬直した。あまりの出来事に空いた口が塞がらない。昭和二十年の日本の倫理観において、未婚の男女が下着姿になるなど逆立ちしてもあり得ない狂気の沙汰だった。だが、目の前には、夏の夜の薄暗い掘立小屋の空気のなかで、白く滑らかに輝くアニヤ中佐の背中が、確かに剥き出しになって存在していた。生理痛と貧血のせいで、その肌はどこか痛々しいほどに青白い。私は真っ赤になった顔から、多汗症の冷や汗を滝のようにあふれ出させながら、タライの水に浸した白い手拭いを、震える手で臨時に掴み上げた。あまりの緊張に指先の感覚が麻痺し、手拭いを持つ手がガタガタと小刻みに震えて止まらない。私は下着姿のソ連軍中佐の背中を前に、手拭いを握ったまま完全に身動きが取れなくなっていた。
私は意を決し、震える手で温かい手拭いを彼女の青白い背中へと当てた。だが、朝鮮人慰安所にすら行ったことのない私に、女性の身体を拭く適切な力加減など分かるはずもなかった。私はただ、自分の正確性と生真面目さを総動員し、軍隊で仕込まれた「廊下を拭く手順」のように、生真面目な手つきで丁寧に彼女の背中を擦り続けた。
「……力がないのね。全然さっぱりしないわ」
隣から、心底不満そうな呆れた声が聞こえた。そのあまりにも情緒のない酷評に、私の張り詰めていた緊張は一瞬にして興醒めてしまった。
だが、私の落胆など意に介さず、中佐は次の瞬間、寝台の上にすくりと立ち上がった。そして、あろうことか下衣までをも躊躇なく脱ぎ捨て、私の手から手拭いをひったくると、自ら自分の身体を豪快に拭き始めたのだ。私は声にならない悲鳴を上げ、全身を限界まで硬直させて、掘立小屋の泥塗れの壁へと一瞬で顔を向けた。脳内のすべての機能を停止させて壁と睨めっこをする。衣服の擦れる生々しい音だけが、狭い空間に響き渡る。
「何してるの? 早くあなたも拭きなさいよ。お湯が冷めるわ」
背後から、信じられないほど呆れ果てた彼女の声が飛んできた。
私は恥ずかしいやら、男として悔しいやら、ぐちゃぐちゃになった感情を爆発させるようにして振り返り、タライの残りの湯水へと手拭いを叩き込んだ。そして、やけくそになりながら、自分の汗まみれの身体を乱暴に手拭いで拭い去った。石鹸の香りが、私の火照った皮膚を冷やしていく。私は部下が届けてくれた、糊の効いた新しい着替えへと素早く袖を通した。
衣服を改め、私は自分の行李を気を取り直して確認した。蓋を開けると、そこには下士官用の九五式軍刀、ホルスターに入った十四年式拳銃、予備弾薬、憲兵の腕章、万年筆、そして数冊のノートが収められていた。私はそれらの物品を愛おしく見つめた。今夜、私はこれらすべてを捨て去り、最大の反逆者となるのだ。だが、私にはもう、感傷に浸っている暇など一分たりとも残されてはいなかった。
掘立小屋の隙間から、満州特有の夜の冷気がじわじわと侵入し、部屋の温度を急激に下げ始めていた。寝台の上で身をすくませた中佐は、青白い顔のまま、またしてもあっけらかんと信じられない要求を口にした。
「寒くなってきたわね。……ねえ、温かいロシアンティーが飲みたいわ」
私は、初めて中佐の要求を黙って無視した。薄暗い掘立小屋のなかに、重苦しい沈黙が流れる。拳銃や腕章を見つめているうちに、私の胸の奥に、「私が選んだ道は間違いか」という深い疑念が湧き上がってきたのだ。己の選択の重さに足がすくみ、拳銃をホルスターへと収めて立ち上がった、まさにその瞬間だった。
ドゴッ! という鈍い衝撃と共に、私はお尻を襲った激痛に顔を歪めた。
「――うわっ!?」
振り返ると、青白い顔をした中佐が、その右足のソ連軍の固い軍靴を突き出していた。
「腹減ったし、寒いんだよ! イライラさせるな!」
中佐は、私の繊細な迷いなど知る由もなく、まるで青鬼のような怒鳴り声を上げて私を蹴り飛ばしたのだ。だが、その理不尽な蹴りのおかげで、私の頭脳を支配していた上等な感傷は一瞬できれいに消し飛んでいた。
私は奥歯を噛み締め、やけくそになった激しい動揺のまま、部下を急いで呼んだ。多汗症のせいで本当にカラカラに乾ききっていた喉を震わせ、通路に向かって大声を張り上げた。
「……喉が渇いて、渇いて仕方がないのだ。身体が激しく熱を帯びている。至急、暖かい飲み物をここに持って来てくれ!」
「は、はっ! ただちに持って参ります!」
ドアの向こうで部下は恐怖と悲壮感に顔を引きつらせ、文字通り飛ぶようにして通路を駆け去っていった。私の激しい発汗と喉の渇きが、コレラの脱水症状に苦しむ姿として、再び完璧な盾となって司令部を欺いていく。
「軍曹殿! 暖かい飲み物を持って参りました……ッ!」
部下が命懸けで運んできたアルミのお盆の上には、湯気を立てる黒いコーヒーの入った二つのカップと、そして——小さな紙箱に収まった、真っ白な「角砂糖」がいくつか添えられていた。
「角砂糖……」
それを見つめた瞬間、私の目の奥から本物の涙が溢れそうになった。甘いものなど、一体いつ以来口にしていないだろう。部下たちが尋問を続ける私への、文字通り命懸けの贈り物だった。至至福の甘みを噛み締めるべく、ふと顔を上げた。
だが、次の瞬間、私はその場に呆然と立ち尽くすことになった。隣の寝台の上で、アマソワ中佐は満足げな笑みを浮かべ、その黒い液体を美味しそうに啜っていた。——あろうことか、貴重な角砂糖を、私の分まで一つ残らずすべて自分のカップの中に放り込んで。
あまりの協調性の無さに、私はただただ唖然とするしかなかった。中佐は私の絶望に染まった顔を見つめながら、実にあっけらかんと言い放った。
「ふう……生き返ったわ。このコーヒー、なかなか美味しいわね」
美味しいわね、ではない。それは本官の涙の角砂糖だぞ。私は手元の苦いブラックコーヒーのカップを握りしめ、あまりの理不尽さに悔し涙を堪えながら、薄暗い掘立小屋の天井を再び仰ぎ見るしかなかった。しかし、その強烈な甘みのおかげで、彼女の青白い顔に微かに元気が出たのを見て、私は苦いコーヒーを喉へと流し込みながら、心のどこかでホッとしている自分にも気づいていた。私たちの命を賭けた知能戦の夜が、ハルビンの暗闇のなかで静かに更けようとしていた。




