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第九章:『夕闇のシェルター』

掘立小屋の内部は、外のぎらつく真夏の熱気が淀(よど)み、ただ床に毛布を一枚敷いただけの酷く狭く粗末な空間だった。私とアマソワ中佐は、這い入るようにしてその毛布の上に並んで寝そべった。部下たちの涙の敬礼を欺き、なんとか掴み取った二人きりの隔離空間。だが、隣に横たわる彼女の横顔を覗き込んだ瞬間、私の心臓は冷たく凍りついた。

中佐の額には、うっすらと本物の汗が滲んでいた。そして、その顔色は地下室にいた時から相変わらず青白く、生気を失っているように見える。まさか――私の頭脳に、最悪の推測がよぎった。彼女は本当に、あのハルビンのアジトの外にある井戸水を口にして、本物の病魔に侵されているのではないか。

「……どうした?」

私は声を震わせ、彼女のグレーの瞳を覗き込んで問いかけた。

「まさか、本当に……本当にコレラに感染しているのか?」

私が本当の恐怖に駆られて問い詰めると、中佐はぐったりと横たわったまま、フッと自嘲気味に、しかしどこか優しく笑った。

「……生理が来たみたい」

「――ッ!」

そのあまりにも直截的で生々しい言葉に、私の思考回路は一瞬で跳ね飛ばされた。羞恥心が脳内で爆発し、私の顔は耳の裏まで一気に真っ赤に染まった。私は彼女の顔を見ることもできなくなり、ただただ、二人の下に敷かれた軍用の固い毛布の表面を、穴が開くほど真っ赤な顔で見つめることしかできなかった。

しかし、その羞恥の裏で、私の頭脳は冷徹な事実を弾き出していた。これによって、彼女の顔の青白さや発汗の理屈が完全に通る。天は、この純情な文学青年と、孤高の女中佐に、最も完璧な「肉体の盾」を授けたのだ。私は真っ赤な顔のまま、静まり返った小屋の中で、必死に高鳴る心臓を抑え込もうとしていた。

「私は、昔から生理痛が重いのよ」

中佐は、私が真っ赤になって毛布を見つめているのなどどこ吹く風で、実になめらかに、自らの肉体の不調を口にし続けた。

「いつも貧血になって、頭がフラフラするの。……まあ、男性にはなかなか理解できないことでしょうね」

その言葉を聞きながら、私は彼女の顔をどうしても凝視することができなかった。昭和二十年の日本において、女性の生理という現象は、男の前で口にすることなど絶対にあり得ない「タブー中のタブー」だった。それを、あろうことか敵国の、それも自分より遥かに上の階級にあるソ連軍中佐の口から、これほどまでに堂々と、対等な事実として突きつけられるとは想像すらしていなかった。彼女の国ソ連では、女性も一人の兵士として、将校として、男と等しく最前線で泥に塗れて戦う。その彼女たちの文化の合理性と、我が大日本帝国の生真面目な倫理観との間の、あまりにも巨大な摩擦(ギャップ)の前に、私はただ圧倒されるしかなかった。

「あなたの部下が食事を運んで来たら、紙とボロ布を持って来る様に言ってね」

中佐は、相変わらず悪びれる様子もなく、あっけらかんとした口調で私にそう要求した。そのあまりに直接的な要請に、私はもう言葉を返す気力すら奪われ、ただ真っ赤な顔のまま無言で頷くことしか出来なかった。

やがて、掘立小屋の固い木製のドアの向こうに、部下たちが食事を置きに来た気配がした。「軍曹殿、お食事を置いておきます!」という涙声の部下の声が遠ざかる。私がドアを僅かに開けて運び入れたアルミのお盆の上には、病食用のお粥が入った鉄鍋と、一切れの沢庵、そして昭五式水筒が静かに置かれていた。私は部下たちがまだ外の通路にいるうちに、中佐から突きつけられたあの要求を、声を潜めて伝えた。

「……おい。至急、紙と、清潔なボロ布を持ってこい。尋問に必要な手順だ」

「は、はっ! ただちに!」

軍曹の命令を尋問の技術だと盲信した部下たちは、大急ぎでそれらを調達してくると、掘立小屋のドアの前にそっと置いて、感染を恐れるように足早に去っていった。

私がそれらを室内に引き入れ、中佐へと手渡した、次の瞬間だった。あろうことか、アマソワ中佐は、この狭く逃げ場のない掘立小屋の中で、私の目の前でその処理を始めたのだ。

「――ッ!?」

私は全身の血が逆流するような凄まじい衝撃を受け、慌てて両手で顔を覆い、狂ったように壁側を向いて完全に硬直した。耳の奥まで真っ赤に染まり、軍服の下からは、私の体から滝のような冷や汗がとめどなく溢れ出て、毛布の上にポタポタと滴り落ちていく。私はただ、自分の過酷すぎるナイトとしての運命を、真っ赤な顔のままで呪い続けるしかなかった。(……くそ、どうしたらいい。これは……もしかしたら、本当のコレラに罹るよりも、遥かに辛いかもしれない……!)

「どうしたの? 汗だくよ、文学青年さん」

処理を終えたアマソワ中佐が、相変わらず青白い顔のまま、壁際で硬直している私の顔を覗き込んできた。私の思考回路は完全にショートしていた。額からは大粒の汗が床の毛布へと滴り落ちている。私のその尋常ではない狼狽ぶりを見つめていた中佐は、そのグレーの瞳を大きく見開くと、信じられないものを見るような声を漏らした。

「……まさかあなた、童貞なの?」

「――ッ!」

心臓が破裂するかと思った。パニックが頂点に達し、私は半分やけくそになって、俯いたまま声を荒らげて言い放った。

「……そうだ! 本官はまだチョンガーだ! 朝鮮人の慰安所にも、行ったことなど一度もない!」

私は彼女から嘲笑が返ってくることを覚悟し、奥歯をキャンと噛み締めて身をすくめた。しかし、私の汗だくの顔をじっと見つめていたアニヤ中佐の口から漏れたのは、冷たい笑い声ではなかった。

「――素敵よ」

中佐は優しく、心の底から愛おしそうにそう呟いた。

「素敵よ、岡田軍曹。女を獣のように貪ることしか知らないあの野蛮な男たちの中で……あなただけが、本物の、綺麗な魂を持った私の騎士だわ」

「素敵よ」と私を見つめて囁いたアニヤ中佐の、あの聖母のような微笑みは、しかし次の瞬間には綺麗さっぱりと消え去っていた。彼女は運ばれてきたアルミのお盆の上の鉄鍋を覗き込むと、一瞬にして顔色を変え、露骨に嫌悪感を剥き出しにして毒づいた。

「しかし、この食事は何!? 味気はないし、量は信じられないほど少ないし……、この不気味な黄色の食べ物は一体何なのよ!?」

「……ハァ」

また始まったか、と私は頭を抱えて深いため息をついた。私はやけくそ気味な動揺を抑え、説明を試みた。

「……何を言うんだ。我が日本軍において、この戦時下に白い米の飯が食べられるだけでも、十分に幸せなことなんだぞ。……それから、その黄色の食べ物は『沢庵(たくあん)』という大根の漬物だ」

「信じられないわ……」

中佐は心底がっかりしたように肩を落としたが、すぐにグレーの瞳をギラリと輝かせ、私に向かって鋭い一撃を突きつけてきた。

「そんなことより、岡田軍曹。昨日の約束はどうしたの?」

「……は?」

私はあまりの突飛な問いかけに、文字通り目が点になった。

「シャワーよ! 私は美味しかったわの後に、次はシャワーが浴びたいって言ったはずよ! ここは暑くて、おまけに生理で体がじっとりして最悪だわ」

この、いつ射殺されてもおかしくない屋外の隔離された掘立小屋のなかで、あろうことかシャワーの約束を履行しろと迫ってきたのだ。中佐のあまりにも自由奔放な言動の前に、私はただただ唖然としながら、彼女の恐るべきペースに完全に振り回されるしかなかった。

私は頭を抱え、目が点になったまま、なんとか彼女の無茶な要求を現実の手順へと落とし込むための考えを巡らせた。しばらくして、昼のアルミのお盆を下げにやってきた部下の気配がドアの向こうに聞こえた。私はドアを僅かに開き、外の部下に向けて低く命じた。

「……おい。次の食事を運んでくる際、新しい着替えと、清拭(せいしき)のための温水と布の準備をしてくれ。――それから、本官の班長室にある荷物も、図嚢を含めて全部ここに持ってきてくれ」

「ぐ、軍曹殿……! 了解いたしました……ッ!」

部下は、岡田軍曹が死の迫る恐怖のなかで最後の最期まで任務を全うする「凄まじい覚悟」を決めたのだと、完全に錯覚したようだった。だがその誤認のおかげで、私は自らの身の回りの全財産と、彼女の体を拭いて清潔にするための物資を、誰に疑われることもなくこの部屋に集めることに成功した。

部下たちが去ったあと、私たちは極限の心理戦による凄まじい精神的な疲れからか、毛布の上に並んで横たわったまま、少しまどろんだ。

どれほどの時間が流れただろう。すっかり日が落ち、掘立小屋の隙間から夜の冷気がじわじわと忍び込み始めた頃、ドアの外から響いた部下の声で私たちは目を覚ました。

「軍曹殿! お食事と、ご指示のあったお荷物一式を置いておきます……ッ!」

部下たちの気配が遠ざかるのを待って、私は衣服の擦れる音に赤面しつつもドアを開け、私のすべての荷物と、待望の温水、迅速夕食のお盆を室内に引き入れた。だが、そのお盆の鉄鍋を覗き込んだ瞬間、アマソワ中佐はグレーの瞳をこれ以上ないほど見開いて、夜の静寂を切り裂くような声で絶叫した。

「なんなのよ、これは……! この不気味な赤い実は、一体何なのよ!?」

「……ハァ」

私はお盆の上の白いお粥を見つめ、またしても今日何度目か分からないため息を深くつくことになった。お粥の中央に、血のように赤く鎮座しているのは、我が国の伝統的な兵食の象徴である、ただの「梅干し」だった。酸っぱい匂いに顔をしかめ、今度こそ毒殺でもされるかのように本気で怯えて毒づく中佐を前にして、私はまたしても、多汗症の冷や汗を流しながら、その日本の伝統的な漬物の理屈を生真面目に説明する羽目になった。

自由奔放な彼女の言動に完全に振り回され、赤面し、唖然とさせられながらも、私は机の上に届けられた自分の図嚢――あのプーシキンの詩集が眠る革かばんに、そっと手を伸ばした。私たちの命を賭けた知能戦の夜が、ハルビンの暗闇のなかで静かに更けようとしていた。


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