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第七章:『激震の地下室』、第八章:『ナイトの盾』

「軍医たちを完全に混乱させましょう。――いい? 今から、私は『コレラ患者』よ」

アマソワ中佐が不敵にそう言い放った、まさに次の瞬間だった。

彼女は深く、大きく胸に夏の冷え切った地下の空気を吸い込んだ。国家保安人民委員部を率いる最前線の高級将校としての凄まじい覚悟が、その一瞬の呼吸に凝縮されていた。配置された両足に限界まで力を込めて踏ん張ると、自ら椅子ごと横倒しに床へと転倒したのだ [画像参照]。

ガタンッ! と、静まり返った地下室に鼓膜を破るような激しい破壊音が響き渡る。その異常な物音に、廊下に控えていた部下の伍長と上等兵の二人が、狂ったようにドアを激しく叩いた。

「お腹が、痛いわ……ッ! うああああっ!」

床に倒れ伏したまま、中佐は身をよじるようにして絶叫した。そのグレーの瞳には、尋常ではない苦痛の色が完璧に演出されていた。予期せぬ彼女の命がけの猛打に、私は一瞬、激しく気が動転した。心臓が早鐘のように打ち鳴る。だが、私の頭脳はすぐさま彼女の意図を正確に読み解き、冷徹な仮面の下で即座に次の命令を部下たちに怒鳴り散らしていた。私は鍵を開けてドアを乱暴に開くと、外の二人に向かって言い放った。

「何をしている、早くその女を便所へ連れて行け! ――それから、昨日薬品を調べさせた衛生兵もすぐにここへ呼ぶんだ!」

「は、はっ!」

部下たちはコレラという最悪の病魔の影がすぐそこに迫っているとも知らず、ただ事態の異常さに顔を引きつらせて部屋へと飛び込んできた。

アマソワ中佐は、あの悪臭の漂う地下の便所へ長く、長く篭(こも)り続けた。その間、私と憲兵伍長、あるいは憲兵上等兵の三人の男たちは、重苦しい沈黙の中で便所の前に立ち尽くし、待機していた。あまりの長さと不気味な静寂に、伍長と上等兵は焦れ、苛立ちを誤魔化すようにタバコを燻(くゆ)らせ始めた。細い煙が通路に立ち上る中、伍長が怪訝(けげん)そうな目を私に向けて、低く呟いた。

「軍曹殿……なんか、怪しくないですか? さっきまであんなに元気だったアマ、急に腹痛だなんて。まさか、尋問を逃れるための狂言じゃ――」

その疑惑の一言に、私の背中をどっと冷たい汗が流れ落ちるのを感じた。一歩間違えれば思想犯として処刑されるという極限の恐怖と、彼女を守らねばならないという激しい鼓動によって、軍服の下をぐっしょりと濡らしていた。私は奥歯を噛み締め、冷徹な尋問官としての表情を必死に維持した。

その時、軋む音を立てて便所のドアが開いた。出てきた中佐は、ぐったりと項垂(うなだ)れ、今にも倒れそうなほどフラフラになっていた。満州の短い夏の酷暑の中にありながら、彼女の顔色は驚くほど青白く、まるで重度の貧血を起こしているかのようだった。彼女は壁に白い手を突き、私の目をそのグレーの瞳で見据えながら、辿々しい日本語で、しかし通路全体に響く明確な声で言い放った。

「……アジトの外の、井戸水が悪かったのかしら。――下痢が、止まらないわ」

その言葉が落ちた瞬間、ちょうど通路へ駆けつけてきた衛生兵の顔面が、一瞬にして蒼白となった。ハルビン周辺の未給水地域における「井戸水」と「激しい下痢」。それが意味する恐怖の病名を、医療の知識を持つ衛生兵が知らぬはずはなかった。衛生兵はガタガタと小刻みに震えながら、私の元へすがりつくようにして声を絞り出した。

「ぐ、軍曹殿……! 井戸水でこの凄まじい症状、まさか……『コレラ』では……ッ!?」

便所の前に、戦慄の病魔の影が完全に具現化した。伍長たちもタバコを落とさんばかりに顔を引きつらせている。私は、激しく高鳴る鼓動を完璧に抑え込み、誰よりも冷静な、義務的な声音を装って低く言い放った。

「……可能性はある。潜伏期間を考えれば、アジトにいた時点で感染していたと見るのが妥当だ。伍長、被疑者をすぐに牢へ戻し、隔離しろ。――衛生兵、お前は今すぐ、この事実を軍医殿に報告しろ」

「は、はっ! 直ちに!」

衛生兵は血相を変えて通路を駆け上がっていった。ハルビン憲兵隊をも巻き込む、私たちの命がけの知能戦の罠が、ついに大日本帝国陸軍の防衛規定の裏をかいて完全に発動した。




ハルビン憲兵隊司令部は、文字通り大パニックに陥っていた。駆けつけた軍医から下された命令は、私の想像を遥かに超えて冷酷、かつ破滅的なものだった。

「ただちに施設内を全面消毒しろ! ――それから、感染源となったあの女のスパイは、病原菌をこれ以上拡散させんために今すぐ外の射殺場へ連れて行き、銃殺処分とせよ!」

治療や隔離などという生ぬるい考え方は、狂気の中枢には存在しなかった。最悪の伝染病を前にして、軍が選んだのは「被疑者の即座の抹殺」という最も手っ取り早い防衛のやり方だったのだ。司令部には怒号が飛び交い、大勢の衛生兵たちが防毒マスクをつけ、消毒液の詰まった噴霧器を担いで、まるで巣を荒らされた働き蜂のように忙しなく動き回っていた。

ガチガチと歯を鳴らす部下たちによって、アマソワ中佐は地下から引きずり出され、あの司令部の裏手にある臨製の射殺場――きらきらと照りつける真夏の太陽が干からびた地面を焼く、あの屋外の処刑場へと連行されていく。彼女のグレーの瞳が、死を覚悟したように僅かに揺れ、私を見つめた。このままでは、彼女が殺される。私の完璧だったはずの嘘の防壁が、彼女の命を奪う刃になってしまったのだ。

「――待て!」

私はぎらつく日の光が眩しい屋外の射殺場で、中佐の行く手を阻むようにして立ちはだかった。そして、周囲を狂ったように飛び回る衛生兵や部下たちの耳に届くよう、腹の底から大声で言い放った。

「……本官も、昨晩からこの女を密室で一対一で尋問し続けていた。さらに、先ほどは便所への連行にも付き添っている。衣服にも直接触れた。――本官も、すでにコレラに感染している可能性がある!」

その烈しい言葉が真夏のぎらつく空の下に響き渡った瞬間、銃口を向けようとしていた伍長たちの動きが、完全に凍りついた。軍服の下で、私の体からは滝のような汗がとめどなく流れ落ちていた。激しい鼓動のせいで顔色は青白く、額には大粒の冷や汗が滲んでいる。だが、その私の尋常ではない発汗の様子こそが、周囲の者たちの目には、コレラの初期症状である「急激な脱水」が始まっている確固たる証拠として映り込んでいた。

「軍曹殿まで、まさか……」

伍長たちが恐怖に顔を引きつらせ、一歩後ろへ退がった。私は、額や頬からあふれ出る大粒の汗を、拭おうともせずにぎらつく太陽を見据えた。激しい鼓動のせいで視界が熱く歪む。だが、私は外の射殺場に立ち尽くしたまま、銃口を向けた部下たちと軍医に向かって、腹の底から裂けるような声を張り上げた。

「この女の尋問は、まだ終わっていない! 叩けば、まだ埃が沢山出て来るはずだ! ――本官の命が尽きるのが先か、こいつの口を割らせるのが先か、勝負させてほしい。私とこの女を隔離しろ。そこの掘立小屋に、私と女を入れろ!」

私が指差したのは、射殺場の片隅にひっそりと佇む、使われていない木造の古びた掘立小屋だった。そこは日中の酷暑がこもり、夜になれば満州の容赦のない冷気が隙間風となって吹き込む、過酷な場所だ。しかし、今の私と中佐にとっては、誰の目も届かない、二人きりになれる唯一の安全な城(シェルター)だった。

滝のような汗を流しながら、死の病の恐怖を前にしてもなお、憲兵としての職務を全うしようとする私のどこまでも真っ直ぐな姿。それが、周囲の者たちの心を激しく揺さぶった。

「軍曹殿……ッ!」

さっきまで下劣な笑みを浮かべていた憲兵伍長が、あるいは上等兵が、その目にボロボロと熱い涙を溢れさせた。命を賭して国に尽くそうとする私の悲壮な覚悟の前に、彼らは言葉を失い、ただ涙を流しながら、我が身の危険も忘れて私に向かって真っ直ぐに右手を掲げ、涙ながらに挙手の礼を捧げたのだ。

軍医もその気迫に押されたように小さく頷き、部下たちに隔離の指示を出した。激しい夏の熱気と、消毒液の匂いが立ち込める屋外の射殺場で、私は涙を流する部下たちの敬礼に見送られながら、アマソワ中佐を伴って、二人だけの最後の戦場である掘立小屋の闇の中へと足を踏み入れていった。

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