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第十一章:『緑の雑草』、第十二章:『世界の終わりと、最後の浴室』

濃密な甘みのコーヒーを飲み干したあと、私たちは張り詰めていた緊張の糸が切れたかのように、掘立小屋の床の上で泥のようにぐっすりと眠りに落ちた。目が覚めたときには、すでに八月のぎらぎらとした強い朝の陽光が、隙間風と共に室内に差し込んでいた。だが、身体の汚れを清めた安堵感の裏で、私の頭脳は「このコレラ偽装がバレるのは時間の問題だな」という、冷徹な生存の計算式を静かに弾き出していた。時間が、決定的に足りない。

その時、朝食を運びに来た部下の、これまでになく怯えきったノックの音がドアを震わせた。

「軍曹殿……! 朝食を置いておきます。……それから、先ほど司令部に入った、とんでもない極秘情報をお伝えいたします」

ドアの向こうの部下の声は、戦慄にガタガタと激しく震えていた。

「先ほど入った情報では、日本内地にアメ公の『新型爆弾』が投下され、一瞬にして都市が壊滅したとのことです! ――それだけではありません。我が満州国の国境付近でも、ソ連軍による不審な大部隊の動きが確認されたと、司令部が大騒ぎになっております……ッ!」

「――ッ!?」

私はお盆を引き入れる我が手の動きを完全に凍りつかせ、あまりの衝撃に激しく息を呑んだ。新型爆弾による内地の壊滅、そして満州国境でのソ連軍の不穏な動静。アマソワ中佐が昨晩囁いた、あの「ソ連による満州全面侵攻」という破滅の秒読みが、ついに現実の足音となって帝国の喉元へと突きつけられたのだ。世界が完全に終わる。私の頭脳は、そのあまりにも巨大な歴史のうねりを前にして、気絶しそうなほどの衝撃を受けていた。

私が血の気の引いた顔でアルミのお盆を室内に運び入れると、寝台の上のアマソワ中佐は、国家の滅亡などどこ吹く風で、今朝のお粥の鉄鍋をグレーの瞳でじっと見つめていた。外装、お粥の上に載せられた鮮やかな緑色の物体を細い指先で指差すと、一瞬にして顔色を変え、なめらかに毒づいたのだ。

「……ねえ、岡田軍曹。今度は私に、そこらの道端に生えている『雑草』を食べろと言うの?」

「……は?」

私は世界の崩壊という極限の恐怖から、彼女の突飛な一言によって、無理やり現実へと引き戻された。

「雑草ではない。これは『野沢菜(のざわな)』という、我が国の立派な菜っ葉の漬物だ。お粥の味を引き立てる、実に美味いものだぞ」

私が多汗症の冷や汗を流しながら、いつもの悪癖で生真面目に説明を始めると、中佐は心底呆れたようにふんと鼻を鳴らした。

国境にソ連の大軍が迫り、自らの国が消えてなくなるかもしれないという極限の状況下で、お粥の付け合わせに本気で腹を立てている中佐。私はそのあまりにも図太く、恐るべきほどに呑気な彼女の言動を見つめながら、張り詰めた脳髄の裏側で、不覚にも、この自由奔放な彼女の姿が心の底から羨ましくなってしまっていた。

中佐は新しく届けられたタバコにマッチで火を付け、細い顎を上げて白い煙をゆったりと吹かした。そして、世界の崩壊を告げるあの部下の報告など、最初から知っていたかのように、グレーの瞳を細めて平然と言い放った。

「焦りは禁物よ、文学青年さん。――時期が来るまでは、私たちはこの掘立小屋でじっと待機よ」

「……な、何を言っているんだ!」

私はあまりの言葉に呆然とし、思わず声を荒らげた。国境にはソ連の大軍が迫り、内地の都市は新型爆弾で壊滅したのだぞ。

「しかし……これから、一体どうする気だ。命令が偽装だとバレるのも時間の問題だぞ。国境が破られれば、ここは真っ先に戦場になるんだぞ!」

私が激しい焦りと恐怖に駆られて問い詰めると、中佐はタバコの煙の向こうで、悪魔のようとなめらかに、ニヤニヤと楽しそうに笑いながら言い放った。

「――2人で、この満州からトンズラするのよ」

「トン、ズラ……ッ!?」

そのあまりにも泥臭く、不穏で、私のこれまでの人生の辞書には存在し得なかった不条理な言葉の響きに、私は激しい目眩(めまい)がして、その場に引っくり返りそうになった。トンズラ。すなわち、大日本帝国陸軍からの完全な脱走であり、国家への永劫の反逆。この金髪の女スパイは、世界が完全に崩壊するその最初の大混乱のどさくさに紛れて、このハルビンから私を連れて逃げ出す気なのだ。だが、目眩のする私の頭脳の裏側で、その「トンズラ」という破滅的な言葉が、不思議なほど甘美に、深く刻み込まれていくのを私は感じていた。

それから、言葉に尽くしがたいほど不気味な数日が過ぎ去っていった。私たちは誰の目にも触れぬよう、ただ床の毛布の上に並んで寝そべり、外の様子を伺い続けていた。司令部全体が不穏な熱気に浮き足立っているのが、薄い木壁の隙間から伝わってくる。

ある日、定刻を過ぎても一向に朝の食事が運ばれてこないという、決定的な異常事態が起きた。張り詰めた静寂のなか、寝台の上のアマソワ中佐がタバコの煙を静かに吐き出し、グレーの瞳を妖しく煌めかせて低く呟いた。

「――そろそろね」

彼女がそう言った、まさにその瞬間だった。掘立小屋のドアの前に、地響きのような激しい足音が近づき、部下の伍長が狂ったようにドアを叩いて怒鳴るように報告した。

「軍曹殿! 軍曹殿ッ! ――先ほど、ソ連軍が我が満州国境を突破し、全面激突に突入いたしました! ソ連が我が国に宣戦布告いたしました!」

「――ッ!」

私は行李(こうり)の上の十四年式拳銃を掴み、跳ね起きるようにして立ち上がった。ついに、ついに恐れていた世界が崩壊するその日が来てしまったのだ。

「憲兵隊司令部をはじめ、関東軍は完全に大混乱に陥っております! 本部からは機密書類の緊急焼却命令が下り、地上の執室は大騒ぎです! ――軍曹殿、本官たちはこれよりハルビン市内の在留邦人の保護、および前線部隊への合流のため、ただちに出撃いたします!」

「伍長、待て! 本官の隔離措置は――」

「もう構っていられません! 生きてお戻りください、軍曹殿!」

バタバタと慌ただしい足音が、そのまま司令部の表へと遠ざかっていく。遠くからは、空襲警報の不気味なサイレンの音がハルビンの空へと鳴り響き始めていた。監視の目は、完全に消えた。部下たちが涙を流して見張っていたこの掘立小屋の周りには、もう誰もいない。大混乱に陥ったハルビン憲兵隊司令部の、完璧な機能不全。衣服を改め、行李の武器を整えた私と、隣で不敵に微笑むアマソワ中佐。世界が完全に破滅の炎に包まれるその大嵐のどさくさに紛れて、旧制中学卒の憲兵軍曹とソ連軍中佐の、歴史の裏をかく壮大な「トンズラ」の企てが、ついにその本当の火蓋を切ったのだ。



私は、数日ぶりにあの狭い掘立小屋の重いドアを押し開け、外の空気を吸った。ぎらぎらとした八月の太陽が照りつけるハルビンの空を見上げた瞬間、私はその場にただ呆然と立ち尽くすしかなかった。青空を切り裂くように飛んでいるのは、明らかに友軍機ではない、不気味な迷彩を施したソ連軍の戦闘機だった。地平線のいたる所から、爆撃による不気味な黒煙が巨大な柱となって立ち上り、真夏のハルビンの街を覆い尽くそうとしている。

「日本軍は、大混乱ね。司令部の中も完全にもぬけの殻のようよ。――さあ、早くいきましょう、私のナイト」

中佐は小屋から出ると、眩しそうにグレーの瞳を細め、大きく身体を伸ばして言った。私たちは人影の完全に消え失せた、静まり返る憲兵隊司令部の中へと足を踏みに入れた。

こんなことがあるのか。一つの国家が、これほど呆気なく崩壊していくのか。私は洗面所の蛇口をひねり、冷たい水で勢いよく顔を洗った。肌を刺す水の冷たさで、これが現実なのだと嫌でも思い知らされる。遠くからは、空襲警報のサイレンや、地響きのような砲弾の破裂音が容赦なく耳について離れなかった。

「これを着なさい、文学青年さん」

洗面を終えた私の背中に、中佐の手からずっしりとした布の塊が投げつけられた。それは、あの日私たちが彼女のアジトから押収した、あの男性用の背広だった。

「今のあなたがあの日本軍の軍服を着たまま外に出たら、進撃してきた赤軍(ソ連軍)に一秒でハチの巣にされて銃殺されるわよ。身分を隠すの」

中佐の言う通りだった。私は慌てて、自分の軍服の階級章をむしり取ると、部下が用意してくれた新しい下着の上から、少しサイズの大きい男性用の背広を羽織り、不器用な手つきでネクタイを締めた。その間に、中佐は執務室の奥から、部下たちが必死になって探していたあの「マンドリン銃(短機関銃)」と、男たちの背広に紛れて押収されていた彼女自身のソ連軍の軍服と制帽を、手際よく引っ張り出していた。どこまでも隙がなく、抜け目がない女だった。

「装備の改めは済んだ。……ハルビン飛行場へ向かうぞ、急いでここを出よう!」

背広の襟を正し、行李から手にした十四年式拳銃を隠し持った私が緊張の面持ちで告げると、中佐はマンドリン銃を肩にかけたまま、悪戯(いたずら)っぽくグレーの瞳を煌めかせて足を止めた。

「ちょっと待ってて」

「……あ?」

私はまたしても、彼女の言葉に動きを止めた。

「――ねえ、この司令部の浴室はどこかしら?」

空襲のサイレンが鳴り響き、国境を破ったソ連軍の戦車がすぐそこまで迫っているという世界の終わりの真っ只中で、彼女は衣服を改めたばかりの私の顔を覗き込み、あっけらかんとそう言い放ったのだ。日本軍が逃げ出し、誰もいなくなった今こそ、邪魔されずにシャワーを浴びる絶好の機会だと言わんばかりに。

「バカを言うな、今すぐ飛行場へ向かうぞ!」


私が焦りながら無人の廊下で銃を握り締めていると、やがて、重い木製のドアが開いた。中佐が出てきたのは、一般の兵や下士官は立ち入ることすら許されない、日本軍の司令官専用の豪華な浴室からだった。

「――ッ!?」

彼女の姿を目にした瞬間、私は激しい動揺のあまり、その場から一歩も動けなくなった。湯気の残る廊下に現れたアマソワ中佐は、真っ白なバスタオルを一枚だけ身体に巻き付けた姿だったのだ。ハルビンの真夏の日の光が窓から差し込み、彼女の滴る金髪と、水を弾く白い肌をきらきらと輝かせている。その姿は、世界の終わりという地獄の戦場に突如として現れた、言葉を失うほどに美しすぎる幻影のようだった。

「ふう……生き返ったわ、マイ・ナイト」

中佐はそう言うと、洗面台の水道の蛇口から出る水を両手ですくい、ごくごくと喉を鳴らして美味しそうに飲んだ。そして、私の激しい狼狽などどこ吹く風で、あろうことか、私の目の前で堂々とそのバスタオルを解き、着替えを始めたのだ。

私は完全に思考が停止し、慌てて背を向けると、ただただ廊下の固い床だけを穴が開くほど見つめ続けた。衣服を改める音が、空襲のサイレンよりも激しく私の鼓動を打ち鳴らす。軍服の下は、羞恥と緊張の冷や汗で再びぐっしょりと濡れそぼっていた。

「お待たせ、文学青年さん。――どう、似合うかしら?」

静かな声に私が恐る恐る振り返ると、そこには衣服を改め終えた彼女が毅然と立っていた。手際よく身に纏われた鮮やかな赤軍の軍服と制帽。それは、一人の美しいレディーから、泣く子も黙るソ連軍の中佐へと完全に覚醒した姿だった。その凛とした佇まいは、彼女の剥き出しの知性とグレーの瞳に恐ろしいほどによく似合っていた。肩には、あのマンドリン銃がしっかりと掛けられている。

「……ああ、実によく似合っている」

私が声をごまかすように低く告げると、中佐は不敵に微笑んだ。

私たちはもぬけの殻となった司令部を飛び出すと、裏手の広場へと急いだ。そこには、敗戦間近の混乱のなかで奇跡的に残されていた、年季の入った九五式小型乗用車が静かに佇んでいた。日本軍が誇る、強固な四輪駆動の偵察車だ。

私は行李から持ち出した十四年式拳銃を背広の内側に忍ばせ、少しサイズの大きな背広のネクタイを締め直すと、運転席へと滑り込んだ。助手席には、マンドリン銃を膝に抱えた赤軍中佐。私がセルモーターを回すと、年季の入った九五式小型乗用車のエンジンが、爆撃の地鳴りに負けない力強い咆哮を上げて目覚めた。ぎらぎらとした真夏の太陽が照りつけるなか、私たちは黒煙の立ち上るハルビンの街、そして運命のハルビン飛行場へ向けて、猛烈な勢いで車を発進させた。

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