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最終章:『大連への針路、あるいは騎士の迷宮』

私は、年季の入った九五式小型乗用車のアクセルペダルを床まで踏み込み、猛スピードでハルビンの市街地を駆け抜けた。ぎらぎらとした八月の太陽が照りつける下、視界に飛び込んでくるのは、逃げ惑う在留邦人の群れや、爆撃の黒煙、そして命令系統が完全に混乱して狼狽(ろうばい)しウロウロと彷徨(さまよ)うだけの日本軍兵士たちの姿だった。国家の崩壊を告げるサイレンと砲声が耳をつんざく中、私は飛行場に向けてただアクセルを踏み続けた。

その時、助手席でマンドリン銃(短機関銃)を膝に抱えていたアニヤ中佐が、低く冷徹な声を弾き出した。

「――どこに向かうの、文学青年さん。……まさか、飛行場?」

「そうだ!」

私は前方の混沌を躱しながら大声で怒鳴り返した。

「飛行機で、一体どこに行くのよ?」

中佐のそのあまりにも正確な問いかけに、私は次の瞬間、言葉が出なくなった。私は全身の血の気が一気に引いていくのを感じた。日本内地はアメ公の新型爆弾で壊滅し、満州国境にはソ連の大軍が押し寄せている。今、世界で、元日本軍の憲兵とソ連軍中佐の二人が、生きて降り立てる安全な場所など、地球上のどこにあるというのか。

私は頭が文字通り真っ白になった。ハンドルを握る手が、極限のパニックによる汗でびっしょりと濡れそべり、滑る手で辛うじて車体を制御している状態だった。

そんな私を見つめていた中佐は、呆れたように、しかしひどく愛おしそうな響きを交えて、大きなため息をついた。

「私は、あなたに亡命を希望したはずよ。満州が地獄になるなら、海の向こうの、日本のどこか小さな島にでも行きましょう。国も階級もすべて捨てて、誰も私たちを知らない場所で、二人で静かに暮らすのよ、文学青年さん」

そう語る彼女のグレーの瞳が、未来への希望を宿すようにきらきらと輝いた。

中佐は手際よくタバコにマッチで火を付けると、私の耳元に唇を近づけ、かつて数々の工作員を従えてきた声音で、毅然と命令を告げた。

「――大連に向かいなさい」

「は……? 大連だと!?」

私はアクセルを踏み込んだまま、思わず困惑の声を上げた。

「遠すぎる! 敵の戦闘機が飛び交う空を、どうやって飛び抜ける気だ!」

だが、私の生真面目な頭脳は、四式重爆撃機「飛龍」の三千八百キロという長大な航続距離があれば、大連までの千キロなど余裕で駆け抜けられる距離なのだと瞬時に計算していた。私には飛行機を操縦する技術などない、多汗症の私の手は汗でびっしょりだった。しかし、飛行場の滑走路へと滑り込んだ瞬間に、最も完璧な大嘘の役割を弾き出していた。

「……中佐、私に考えがある。私はソ連軍に捕らえられた『通訳の民間人』を演じる。あなたはマンドリンで脅す側だ」

私たちは車を乗り捨て、高級高官を避難させるためにエンジンをかけたまま待機していた「飛龍」のコクピット(操縦席)に飛び込んだ。そこには、突然の事態に完全に狼狽してウロウロとしていた日本軍の若き操縦士、佐藤健二航空兵曹長がいた。

「動くな! 指示に従いなさい!」

赤軍の軍服を着こなした中佐が、凄まじい気迫でマンドリン銃の銃口を佐藤曹長の眉間へと突きつけた。私は慌てて、少し大きめの背広の襟を正し、凄みを利かせた通訳としての声を張り上げた。

「馬鹿野郎、逆らうな! 私はこのソ連軍中佐の通訳だ! こいつは本気で引き金を引くぞ! 命が惜しければ、この女の言う通りに機体を離陸させ、南の大連へと針路を向けろ!」

「大、大連ですか……!? 了解いたしました、撃たないで下さい!」

陸軍少年飛行兵出身の佐藤曹長はガタガタと震える手でエンジンを全開にすると、我が「飛龍」を大空へと力強く蹴り立たせた。ハルビンの街が、空襲による無数の黒煙の柱を上げながら、またたく間に眼下へと遠ざかっていく。私は背広の内側に十四年式拳銃を忍ばせたまま、操縦士の背中を鋭く監視し続けた。

機体は新京の上空を突き抜け、時速五百キロを超える超高速で真南へと突き進んだ。途中、奉天の上空でソ連軍の最新鋭戦闘機ヤク型に遭遇し、激しい機関砲の曳光弾がコクピットを掠めるという極限の死線をも彷徨ったが、佐藤曹長の完璧な操縦によって敵の追撃を激しい雲海の中へと完全に振り切ってみせた。そして何時間もの緊張の飛行の果てに、前方の地平線にきらきらと輝く「青い海」の水平線が姿を現した。

大連の飛行場に私たちは無事に着いた。エンジンが停止したコクピットのなかで、銃口を突きつけられていた若い搭乗員の佐藤曹長は、全身を小刻みにガタガタと震わせていた。

「ふう……無事に着いたわね。――さあ、まずはとりあえず腹ごしらえね、マイ・ナイト」

助手席のアマソワ中佐はマンドリン銃を肩にかけ直すと、実にあっけらかんと言い放った。私たちは、少しサイズの大きな背広を着た私と、赤軍の軍服の彼女、あるいは腰の抜けた若い佐藤曹長の三人で、飛行場の近くにあった一軒の中国料理店へと足を向けた。

店内に入った瞬間、厨房から出てきた中国人の主人の男性は、マンドリン銃で武装した本物のソ連軍中佐の姿を目にした瞬間、この世の終わりを見たかのような凄まじい悲鳴を上げて絶叫した。そして注文を聞くことも忘れて、そのまま店の裏手へと脱兎のごとく逃げ出して行ってしまった。

「あら。――これで今夜は『食べ放題』よ、文学青年さん」

中佐はグレーの瞳をギラリと輝かせ、楽しそうに笑った。何しろあの狭い掘立小屋に隔離されて以来、数日間にわたって味気ない薄いお粥と、一切れの沢庵や野沢菜しか口にしていなかったのだ。

私も、そして中佐も尋常ではないほどに空腹だった。私は背広のネクタイを緩めると、中佐と並んで、厨房に残されていた出来立ての温かい中国料理をご馳走として猛烈な勢いで口の中へと運び始めた。その時、私は彼女の指先の動きを見て驚愕した。アニヤ中佐は、大連の本場の料理を、我が国の人間と何ら変わらない手つきで実に見事に、器用に箸を使って平らげていたのだ。彼女の底の知れない器用さに私はただ唖然とさせられた。

だが、この異常極まる空間のなかで、一番驚いていたのは、間違いなく私たちに連れてこられた若い佐藤曹長だった。彼は、自分を脅迫した恐ろしいはずの赤軍中佐と、その通訳を自称する少し大きな背広を着た日本人の男が、まるで夫婦(めおと)のように親密に、かつ美味そうに箸を動かして中国料理を貪り食っている不条理な光景を前に、料理を口に運ぶことも忘れ、ただただポカンとした表情で、私たち二人の顔を交互に見つめ続けていた。

「見て、ビールよ、文学青年さん!」

もぬけの殻となった中国料理店の厨房の奥から、中佐は冷えた琥珀色の瓶を見つけて、子供のように無邪気な声を上げて叫んだ。甘い杏露酒(しんるちゅう)を喉へと煽ったあとに、今度はビールか。私は彼女のどこまでも自由奔放な気性を前にして、思わず優しく微笑んでしまっていた。中佐は無邪気に笑っている。

その私たちの様子を、机の向こう側からじっと見つめている佐藤曹長は、いまだにこの目の前の状況が掴めずにいた。しかし、彼はやはりその頭脳が並外れて切れる男だった。中佐から注がれたビールを喉へと流し込みながら、その鋭い目は、私たち二人の関係をじっと観察していた。戦時下の飢えと過酷な訓練に耐えてきた彼が、冷えたビールと中国料理でこんなに満腹になるのは、十九歳の彼にとっても、筆舌に尽くしがたいほどに嬉しかったに違いない。

やがて、その顔に少年のようなあどけなさを残す佐藤曹長は、トンとビールのグラスを置くと、椅子からすくりと立ち上がった。そして、それまでの恐怖の色を完全に消し去り、一人の誇り高き空中勤務者としての顔に戻ると、私の前に直立不動の姿勢を取り、通路に響く明確な声で自らの官姓名を申告したのだ。

「――陸軍少年飛行兵第十三期出身、佐藤健二航空兵曹長!」

彼もまた、組織の学歴の壁や狂気に翻弄されてきた、私と同じ「叩き上げ」の男だった。私たちは、互いを騙し合う必要がないことを悟り、詳しく自己紹介を交わした。

「大日本帝国憲兵軍曹、岡田虎三だ」

「ソビエト連邦軍中佐、アニヤ・アマソワ」

私たちが本当の素顔を彼に明かすと、佐藤曹長は再び、一人のプロとしての真っ当な疑問を口にした。

「軍曹殿。……この作戦は、一体どういう名目(名分)なのですか?」

私は、この若きプロフェッショナルに対して、国への叛逆という重い不条理をどう説明すべきか、背広のネクタイを弄りながら必死に思案した。多汗症の汗が、再び額に滲み出る。

だが、私の困惑を遮るようにして、二本目のビールの栓を軽快に抜いた中佐が、悪戯っぽくグレーの瞳を輝かせて唇を開いた。

「――この憲兵軍曹は、私の騎士(ナイト)なのよ」

彼女はそう言い放つと、驚く私の方へふわりと身を乗り出し、あろうことか、私の汗ばんだ頬にそっと自らの唇を寄せ、キスをしたのだ。

その瞬間、私と佐藤曹長、二人の日本人の男たちの思考回路は同時に完全に跳ね飛ばされ、揃って顔を真っ赤に染めて硬直した。昭和二十年の日本の倫理観において、男女が人前で口づけを交わすなど、御法度もいいところ、狂気の沙汰だった。

中佐は私たちの赤面などどこ吹く風で、ビール瓶を傾けながら、なめらかに続けた。

「この人が、私を日本軍の狂気から守って、海の向こうへ亡命させてくれるのよ」

軍事教育を受けた若者には、一人の女を守るために国を捨てるというこの情熱は伝わらないだろうと、私は恥ずかしさと焦りのなかで完全に言葉に詰まってしまった。

しかし、佐藤曹長は、じっと私たち二人を見つめたまま、静かにグラスを見つめた。彼は、特攻隊が飛び立ち、新型爆弾によって都市が一瞬で灰になる内地の過酷な現実を、これまで痛いほどにその目で見てきたのだ。なりたくてこの冷酷な軍人になったわけではなかった。

やがて、佐藤曹長はぽつりと、しかし心からの憧憬を込めて、低く呟いた。

「……まるで、ゲーテの詩の様です。僕たちの国も、軍隊も、もう終わりです。滅びていくこの世界のなかで、一人のレディーのために命を賭けて空を飛ぶ。軍曹殿、それは最高に美しい詩そのものです。本官は、お二人のその美しい叛逆(トンズラ)に、どこまでも随行いたします」

佐藤曹長のその純実で、どこまでも気高い言葉を聞いた瞬間、隣のアマソワ中佐はグレーの瞳を丸く見開いた。そして、私たちのこの不器用で、しかし誰よりも美しい日本の文学青年たちの魂の気高さに心から打たれたように、小さく口笛を吹いてみせた。


だが、次の瞬間、中佐は自らの両耳で鈍く光っていた、あの小さな金のピアスへと指先を伸ばし、それを強く押し込んだ。

チチチチ……、カチリ。

「……発信機よ、文学青年さん」

中佐は実にあっけらかんと言い放った。私たちは驚愕し、激しく眉間に皺を寄せた。

「私が、この最南端の大連の飛行場を目指させた理由を、今から正確に説明してあげるわ。大連の港のすぐ近くの海底には、我がソ連海軍の潜水艦が極秘裏に配備されているのよ。もちろん、大日本帝国の無能な海軍の監視を完全に掻い潜ってね。私は今、ピアスを使ってその潜水艦へ直接コンタクトを取ったの。おそらく海軍はまだ私のことを正確には把握していないわ。乗員たちも、今は最低限の人間しか乗っていないはずよ。だから、その潜水艦の連中を私の知能戦で完全に唆(そそのか)して、大連からそのまま、海の向こうの『日本の小さな島』へ向かわせるのよ。彼らごと、私たちのトンズラの足にするの」

「そ、そんなこと、上手く行くのか……ッ!?」

私は少し大きめの背広を汗でぐっしょりと濡らし、汗が止まらないまま声を震わせた。自国の潜水艦すらも騙し、亡命の道具として乗っ取るというのか。

「あなたたち二人は、私がソ連のためにハルビンから連行してきた『重要参考人』のフリをして潜水艦に乗り込みなさい。それが、あなたたちの命を守るための最後の盾よ」

私と佐藤曹長は、ただただ呆然として立ち尽くすしかなかった。しかし、激しく高鳴る鼓動の裏側で、私の生真面目な頭脳は、不思議なほどの確信を抱いていた。(……いや、この女なら、本当にやってのける)

中佐は満足げに立ち上がり、制帽の角度を直した。

「――さあ、行きましょう。我がソ連海軍の誇る『ポチョムキン』が、もう少しで海面へと浮上するはずよ」

私と佐藤曹長も大急ぎで武器を掴み、夜の帳が降りる大連の港へと向かって走り出そうとした、その時だった。

「あ、ちょっと待ってよ、文学青年さん」

中佐は私の背広の袖をくいと引っ張ると、実にあっけらかんと足を止めた。

「――マントウ(饅頭)が食べたいのよ。あそこの蒸し器の中に、ふかふかのマントウが沢山残っているわ。あれを全部お盆に載せて、潜水艦の中に持って行きましょう。海の底はきっとお腹が減るわ」

「……………………」

ソ連の潜水艦が浮上し、一分一秒を争う極限の大脱出のその最中に、あろうことか大連名物の小麦の蒸しパンを腹いっぱい食いながら潜水艦に乗るのだと言い放ったのだ。私はあまりの理不尽さと彼女のどこまでもブレない自由奔放さの前に、もはや呆れてなにも言えず、ただただ、開いた口が塞がらないまま、目が点になって立ち尽くすしかなかった。

遠くの大連港からは、不気味な世界の崩壊を告げる砲声の裏で、私たちの新しい未来の始まりを祝福するかのように、静かで、穏やかな海の汽笛の音が、夜の帳の向こうからどこまでも優しく響き渡っていた。

(完)


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