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第四章:『満州国崩壊のカウントダウン』

私は思考の混乱を隠すようにして、一度取調室の分厚い木製のドアを開けた。外に控えていた部下に向かって、できるだけ平坦な声を意識し、「尋問を継続する。ウォッカのおかわりを調達してこい」と短く命じる。すでに私の理性を支える防壁は、彼女の要求を拒絶する機能を失いつつあった。

ドアを閉め、机の方へ振り返ったその時、薬品の鑑定を終えた衛生兵が入れ替わるようにして入室してきた。彼は青ざめた顔で私の元へ歩み寄ると、周囲の部下たちに聞こえないよう、私の耳元で戦慄の事実を低く囁いた。

「――軍曹殿。先ほどお持ちになったガラス瓶の薬品、あれは全て『青酸カリ』でした。間違いありません」

「……!」

耳の奥で、カチリと冷たい音がしたようだった。私の手は、預かっていた手帳を握りしめたまま、微かに、しかし明確に震え始めた。

青酸カリ。それは生きて敵の捕虜になった際、機密を完全に守るために服毒する「自決用の猛毒」だ。マルタとして平房へ送られたあの男三人、そして目の前の女が、生きて情報を渡す気など毛頭ない、文字通り死を恐れぬ極限のプロフェッショナルであるという絶対的な証明だった。

衛生兵をすぐさま退室させ、再び部屋に二人きりの静寂が戻る。

私が震える手で机を支えていると、ショットグラスを弄んでいた金髪の女が、喉の奥でクスリと笑い、グレーの瞳を妖艶に輝かせて静かにその唇を開いた。

「ようやく私の仲間たちが、どんな覚悟でここへ来たか理解できたようね。……いいわ、約束通り、私の名前を教えてあげる」

彼女は背筋を毅然と伸ばし、場違いなほど小さな耳元の金のピアスを揺らしながら、辿々しくも確固たる響きを持つ日本語で、自らの真の身分を告げた。

「私はアニヤ・アマソワ。ソ連軍の中佐よ。一緒にアジトにいた男たちは、国家保安人民委員部(NKVD)の人間と、私のモンゴル人の部下。――そう、部下たちが押収してきたあのソ連軍の軍服と制帽は、男たちのものではないわ。私のよ」

「ちゅう、さ……」

私の頭脳は、そのあまりに巨大な情報の処理に、文字通りフリーズした。

目の前で椅子に縛られている金髪ショートカットのレディーは、ただのスパイなどではない。大日本帝国憲兵隊の、一介の「軍曹」に過ぎないこの私など遥か下に位置する、ソ連軍の高級将校だったのだ。男3人に対して「背広2着と軍服1着」という押収品の数が示していた歪な不条理の答えが、最悪の形で目の前に弾き出された。私はあまりの衝撃に、その場に崩れ落ち、腰を抜かしそうになるのを必死に堪えるしかなかった。

アマソワ中佐は、私の狼鏢(ろうばい)ぶりを隅々まで見極めるように、唇の端の笑みをさらに深くした。

「あなたは部下や上官になんて報告するつもり?」

彼女はニヤニヤと意地悪く、私の逃げ道を塞ぐように問いかけてきた。

正直なところ、私は激しく焦っていた。ハーグ陸戦条約のことなど、我が日本軍においてはごく一部の人間しか知る由もない。ましてやここは、理性が消し飛び狂気だけが肥大化したハルビン憲兵隊司令部だ。上官にこの女の真の身分を報告すれば、条約に基づく将校待遇など与えられるはずもなく、さらに凄惨な拷問の末に男たちと同じく平房へ引き渡されることは火を見るより明らかだった。

私は指先に挟んでいたタバコを灰皿へと置き、微かに震える呼吸を整えながら、彼女のグレーの瞳を正面から見据えて確認した。

「……私があなたを守るとは、具体的にどういうことだ。私は一介の軍曹に過ぎん。あなたのような大物をどうしろと言うんだ」

中佐は、机の上のショットグラスを白くて細い指先で静かに転がしながら、これまでで最も真剣な、しかしどこか底の知れないトーンでその要求を口にした。

「亡命したいの。日本軍に捕まった時点で、モスクワの上の連中は、私たちは死んだと処理を決めるわ。戻ったところで待っているのは銃殺か収容所よ。……だから、私は亡命したい。階級も身分も全て捨てるわ。私をここから出し、安全な場所へと連れて行ってちょうだい」

私を安全な場所へ連れて行って――。その言葉を語る中佐のグレーの瞳の奥は、やはり冷徹に、私という男の出方を試すように、不敵に笑っていた。

私は目が点になったまま、狂いそうになる思考の歯車を必死に回し、私の頭脳が持つ「正確性」という武器だけでなんとか論理の防壁を組み立てて言い返した。

「……しかし、私は正確な君を知らない。君の所属も、正確な階級を示す証明もない以上、今すぐそのハーグ陸戦条約に則った対処をすることは難しい」

それが、憲兵としての、そして規律に縛られた私という人間の精一杯の反撃だった。すると、中佐はニヤニヤとした冷やかしの笑みを消し、グレーの瞳に本物の感嘆の光を浮かべて、短く笑った。

「日本軍の中に、ハーグ陸戦条約の中身をそこまで正確に知っている人間がいるなんて……驚きだわ。ただの野蛮な集団だと思っていたけれど、あなたは違うのね」

私はその言葉に、またしても言葉を失った。彼女の瞳の奥にある剥き出しの知性に気圧されそうになりながらも、私はハンケチを握りしめ、尋問を遂行するために声を絞り出した。

「……君の事を、少しずつ教えてほしい。君が何者なのかを」

「いいわよ」

中佐はタバコをくゆらせながら、私を絡め取るように見つめ、さらに甘い提案を紡ぎ出した。

「私は、自分の知っている情報を全てあなたに話してあげる。それをそのまま、あなたの手柄にすれば良いわ。まず、一つ教えてあげるわね。部下たちが必死になって探していた、そのかばんの中の重要書類。……あれは、私たちが外蒙古の人々に対して行っていた、オルグ(思想誘導)の極秘マニュアルよ」

「外蒙古の、オルグ……!」

私はその言葉の重みに息を呑んだ。ソ連軍のハルビン侵攻が迫る中、関東軍の背後を突くためにモンゴル系民族を反日思想で扇動する工作計画。男三人の中にモンゴル人の部下が混ざっていた理由が、ここで完全に繋がった。憲兵隊司令部がひっくり返るほどの、国家揺るがす超一級の軍事機密だった。

「これを上層部に差し出せば、あなたは英雄よ」

アニヤ中佐はそう言って、私の出世欲を煽るように妖艶に笑った。

だが、その言葉は私の胸の奥に、最も冷酷で不条理な現実の刃となって突き刺さった。

「……出世だと?」

私の口から、自嘲気味な低い声が漏れた。私は拳を血がにじむほど強く握り締め、言い放った。

「私に出世の道などない。……本官は、この陸軍という組織を誰よりも知っている。陸軍士官学校や陸軍大学校を出たエリートどもでなければ、どれほどの軍功を立てようとも、決して上へは行けない。旧制中学校しか私は出ていないのだ。そんな叩き上げに、望める未来など端から存在しない!」

それは、規律と組織を誰よりも正確に観察してきた私が、自らの人生に対して弾き出した、最も不条理な計算式の答えだった。こみ上げる激しい悔しさと絶望が、私の視界を歪ませた。感情を排した冷徹な仮面が完全にひび割れ、私の目の奥から、じわりと熱い悔し涙が滲み出てきた。

そこへ、頼んでいたウォッカのおかわりを持った部下が戻り、ボトルを机に置いてすぐに退室していった。ドアが閉まり、再び訪れた二人きりの静寂の中、中佐は新しく届いたボトルから透明な液体をショットグラスに注ぐと、それを一気に喉へと煽った。

「石頭なのね、あなたは」

彼女は呆れたように、しかしひどく愛おしそうな響きを交えて、クスリと笑った。

「でも……私はそういう、真っ直ぐな人が好きだわ。ソ連にだって、無能な上官へのゴマスリだけで出世した人間なんてごまんといる。……今の私にとって、この狂った世界で命を預けられる『ナイト(騎士)』は、あなただけよ」

ナイト。

入隊以来、狂気と規律の狭間でどれほど正確に職務を遂行しようとも、誰からも一瞥もくれられなかったこの私が、生まれて初めて、一人の人間として完全に肯定されたような気がした。胸の奥からせり上がってくる激しい動揺に、私の心臓は壊れた時計のように激しく脈打ち、鼓動が止まなくなっていった。涙がまた出てきそうだ。

私は机の上のボトルを引き寄せ、ショットグラスになみなみとウォッカを注かった。そして、それを一気に口の中へ放り込み、喉へと煽った。激しい炎のようなアルコールが食道を焼き、脳髄へと突き抜けていく。

...

その瞬間、私の頭脳を凄まじい衝撃が駆け巡った。ロシア文学をこよなく愛する私が、かつてあのドストエフスキーの『罪と罰』を初めて開いたときの、あの魂が根底からひっくり返るような戦慄と全く同じだった。一線を越える。自らの意志で、世界の不条理な規律を破り、巨大な罪を背負って歩み出す。今の私は、あのラスコーリニコフそのものだった。私はハンケチを胸ポケットに収め、感情の消えた、静かで冷静な聲音で彼女を見据えて言った。

「……申し訳ありませんが、入浴は明日にして頂きたい」

アニヤ中佐は、私の突然の口調の変化に、グレーの瞳を僅かに見開いた。

「この司令部では、入浴の時間が厳格に決まっているのです。今、あなたが動けば他の部下たちに不審に思われる。……それよりも、あなたの今夜の寝床をどうすべきか、私は今、その隠蔽の段取りを思案しています」

私の冷静な言葉を聞いたアニヤ中佐は、心からの信頼を込めて優しく微笑んだ。

「わかったわ、文学青年さん。……なら、その騎士の覚悟への、最初で最大の報酬をあげる」

彼女は椅子に縛られたまま、私の方へ微かに身を乗り出すと、白熱電球の光の下で声を極限まで潜め、戦慄の機密を囁いた。

「この情報は、あなたにだけ伝えるわ。他言無用よ。――ソ連が日ソ中立条約を破って、もう少しで、この満州を攻めるわよ」

「――ッ!?」

頭を激しい鈍器で殴られたような衝撃が走り、私はあまりの恐ろしさに、今度こそ脳が硬直して気絶しそうになった。ハルビンが、満州国が完全に崩壊するカウントダウンは、もう始まっている。私は頭から溢れ出る汗を感じながら、震える手で机の端を辛うじて掴み、目の前で不敵に微笑むアニヤ中佐を見つめていた。


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