第三章:『知能戦という名の降伏』
私は両手で頭を抱えた。自分の制御不能に陥った脳細胞を無理やり抑え込むようにして、ポケットからハンケチを取り出すと、額からあふれ出る大量の汗を力任せに拭い取った。プーシキンの詩集という致命的な弱みを握られたパニックの無限ループを断ち切るため、私は意を決して、外で待機していた憲兵伍長と憲兵上等兵の二人を呼び戻した。そして、彼らに向かって低く、しかし断固とした口調で命じた。
「この女は、重大な機密を隠している疑惑がある。これまでの野蛮なやり方では口を割らん。……これからは、本官が主導して『知能戦』でいこうと思う。被疑者の警戒心を解くため、要求通りのウォッカと、温かい食事を持って来い。それから、ここは随分と冷えるな。何か暖を取る手配もしておけ」
「は、はっ! 了解いたしました!」
軍曹殿の突然の「知能戦」という大義名分に、部下たちは気圧されたように敬礼し、食事の調達のために慌ただしく部屋を出ていった。バタン、と分厚い木製のドアを私の手でしっかりと閉め、内側から完全に鍵をかける。再び取調室が私と金髪の女の二人だけになった瞬間、私の口から、重く深いため息が漏れ出た。緊張の糸がわずかに緩んだその隙を、彼女は見逃さなかった。椅子に縛られたままの女は、私の困惑しきった顔を正面から見据えながら、こちらの動揺をすべて楽しむように、ニヤニヤと意地悪く、そして妖艶に笑っていた。
私は少しでも緊張を落ち着かせようと、ポケットからタバコの箱を取り出した。小刻みに震えそうになる指先を抑え、マッチを擦って火を付ける。じわりと赤く灯った先端から、独特の苦い紫煙が立ち上り、白熱電球の光に照らされた地下の取調室をゆっくりと包み込んでいった。
「――私にも、ちょうだい」
女がグレーの瞳を細めて言った。私が許可を出すよりも、その言葉を処理するよりも早く、彼女は椅子の背に縛られた腕の可動域を巧妙に使い、私の手元から器用にタバコとマッチを奪い取っていた。シュ、と乾いた音がして、彼女の薄い唇の端にくわえられたタバコに火が灯る。細い顎を上げ、金髪のショートカットを揺らしながら、彼女は慣れた手つきで白い煙を天井へ向けて吹き出した。
数分後、静寂を破ってドアが開き、憲兵伍長が鉄製の重い火鉢を室内に運び込んできた。赤々と熾った炭の熱によって、氷のように冷え切っていた部屋の空気が、仄かに温まり始める。続いて入ってきた憲兵上等兵は、大柄な体に不釣り合いなほど緊張した面持ちで、ずっしりと重い銀の盆を机の上に置いた。盆の上には、透明に澄んだウォッカのボトル、湯気を立てて深紅に輝くボルシチ、焼き立ての香ばしいパン、濃厚な匂いを放つチーズ、そして香ばしく炙られた鶏肉の塊が並んでいた。物資不足にあえぐ現在の日本軍において、前線の我々でさえ滅多に口にすることのできない、ハルビンの闇市場でも最高級の豪勢なロシア料理だった。部下たちは退室し、再びドアが固く閉ざされた。
「ハラショー……」
女は今度は、私をからかうようにその言葉を低く呟いた。彼女は机の上のボトルに手を伸ばすと、手際よくショットグラスに透明な液体を注ぎ、それをためらうことなく一気に喉へと煽った。強いアルコールが喉を焼くかすかな呼吸音が、紫煙の向こうから聞こえた。彼女は細い指先でタバコを挟み、ゆったりと紫煙を吹かして満足げに吐き出した。
「美味しかったわ。次は、シャワーが浴びたいわね」
彼女の口から飛び出したあまりにも突飛な要求に、私はとうとう空いた口が塞がらなくなった。こみ上げる怒りと困惑をできるだけ抑え、凍りつくような冷徹な声を意識して言い放った。
「……君は、自分の立場が分かっているのか。君はソ連の不穏分子であり、我が軍の最高機密を狙うスパイだぞ」
私の警告などどこ吹く風で、彼女はタバコの灰を銀の盆の端にトントンと落とすと、グレーの瞳に妖艶な光を宿らせて私を見上げ、事も無げに言い放った。
「私を将校待遇で扱ってね。――あなた、ハーグを知らないの?」
「ハーグ……!」
私はその言葉に、文字通り目が点になった。捕虜の権利と人道的待遇を定めた『ハーグ陸戦条約』。そこには確かに「捕虜の将校には、抑留国の同階級の将校に準じる俸給や待遇を与えなければならない」という旨のプロトコルが存在する。だが、ここは狂気と拷問が日常茶飯事の憲兵隊司令部だ。男たちが平然と「マルタ」として人体実験に送られるこの闇の奥で、国際条約の遵守を堂々と、しかも一介の憲兵軍曹に向かって要求してくる捕虜など、私の知る軍事ロジックのどこを探しても存在しなかった。私は目が点になったまま、狂いそうになる思考の歯車を必死に回し、私の頭脳が持つ「正確性」という武器だけでなんとか論理の防壁を組み立てて言い返した。
「……しかし、私は正確な君を知らない。君の所属も、正確な階級を示す証明もない以上、今すぐその条約に則った対処をすることは難しい」
それが、憲兵としての、そして規律に縛られた私という人間の精一杯の反撃だった。すると、女は先ほどまでのニヤニヤとした冷やかしの笑みを消し、グレーの瞳に本物の感嘆の光を浮かべて、短く笑った。
「日本軍の中に、ハーグ陸戦条約の中身をそこまで正確に知っている人間がいるなんて……驚きだわ。ただの野蛮な集団だと思っていたけれど、あなたは違うのね」
私はその言葉に、またしても言葉を失った。彼女の瞳の奥にある剥き出しの知性に気圧されそうになりながらも、私はハンケチを握りしめ、尋問のプロトコルを遂行するために声を絞り出した。
「……君の事を、少しずつ教えてほしい。君が何者なのかを」
「いいわよ」
女はタバコの煙の向こうで、悪魔のようになめらかに微笑んだ。椅子に縛られたまま、私を絡め取るようにグレーの瞳を見つめ、辿々しくも甘い日本語でこう囁いたのだ。
「その代わり――私を、守ってくれる? 純情な文学青年さん」
「――ッ」
心臓が嫌な音を立てて跳ね上がった。彼女は、私が隠し持っていたプーシキンの詩集を、そして私の内面にある誰にも言えない秘密を完全に人質に取ったのだ。彼女を生かしてここから出し、マルタにさせない道を選ぶしか、私に生き残る術は残されていなかった。機械のように正確な私の特性が、最悪の形で彼女というスパイの計算式に組み込まれてしまった。ハルビンの春の冷たい地下室で、私は頭から流れる新たな汗を感じながら、自分のこのあまりにも不器用で、逃げ場のない運命をただ呪うしかなかった。




