第一章:『ハルビン、運命の八月一日』
昭和二十年、八月一日。満州国ハルビンの夏は、日中こそ三十度を超えるうだるような酷暑に包まれていた。ぎらぎらと照りつける太陽が大陸の泥を焼き、街全体が逃げ場のない熱気に満ちている。しかし、大陸性気候のハルビンは、日が落ちると一転して風が冷たくなり、夜から朝方にかけては十五度近くまで急激に冷え込むという過酷な気候でもあった。その激しい温度差の裏で、街を包む空気は帝国の終焉を予感させる不気味な静けさを孕んで、重く張り詰めていた。
「ゾルゲ事件の悪夢を忘れたか!」
憲兵隊司令部は、文字通り浮き足立っていた。かつて国を揺るがした巨大スパイ事件の影が、再びこの北辺の要衝に落ちている。ソ連の密偵がハルビン市内に入り込んでいるという確実な情報がもたらされたのだ。その目的は、石井機関――あの『七三一部隊』の監視と機密奪取。軍の最高機密に触れようとする動向に、上層部は昼間の酷暑さえ忘れて恐慌をきたしていた。
そんな中、事態は急転する。現地の中国人の密告によって、ソ連の密偵アジトが摘発されたのだ。
アジトからは、白人の男二人、モンゴル人男一人、女一人が捕縛され、憲兵隊へと引き渡された。
用済みとなった密告者の中国人男性には、すぐに冷酷な報償が支払われた。生かしておけば二重スパイになる恐れがある。司令部の裏手、昼間の猛暑で干からびた地面で、乾いた銃声が一発。裏切り者はその場で銃殺処分となった。
続いて、捕らえられた密偵のうち、男三人への処分も迅速に決まった。
「こいつらは『マルタ』だ。即刻、平房へ移送しろ」
それは、生きながらにして七三一部隊の人体実験の機材になることを意味していた。憲兵隊にとって、それは日常茶飯事の、ただの事務手続きに過ぎなかった。
しかし、問題は残された最後の一人。まだうら若き、白人の女性スパイだった。
彼女は、憲兵たちのどんな脅迫にも、決して口を割らなかった。
「軍曹殿、どうしますか……。このアマ、何度怒鳴りつけても、銃口を突きつけても、まともに喋りやしません」
地下の取調室。顔を汗で光らせた部下の伍長が、苛立ちを隠せない様子で振り返った。
地上の猛暑から隔絶され、夜に向けてじわじわと冷気が侵入し始めた薄暗い地下室の中、白熱電球の下で椅子に縛り付けられた女性スパイは、激しい恫怒に身をすくませながらも、その瞳の奥にある意志の光だけは失っていなかった。室内に満ちているのは、重苦しい沈黙と、部下たちの荒い息遣いだけだ。憲兵隊の規則上、女の捕虜への直接的な肉体拷問は禁じられている。怒鳴るか、銃口で脅すしか打つ手がない部下たちは、完全に行き詰まっていた。
私は、手帳に万年筆で尋問の経過時間を「十四時二十二分」と正確に書き留め、それを胸ポケットに収めると、一歩前へ出た。
「下がれ、伍長」
私の声は、この緊迫した取調室に不釣り合いなほど冷たく、平坦だった。
「しかし、軍曹殿! 司令部からは一刻も早く漏洩ルートを吐かせろと――」
「下がれと言っている。お前たちのやっていることは尋問ではない。ただの効率の悪い声帯の消耗だ」
私は感情を一切交えずに言い放った。部下たちが気圧されて黙り込む中、私は椅子に縛り付けられた女性スパイの前へ、一歩歩み寄った。
至近距離で見る彼女は、満州の短い夏の陽だまりを吸い込んだような、見事な金髪をしていた。軍人のように短く切りそろえられたショートカット。その隙間から覗く両耳には、場違いなほど小さな、一対の金のピアスが鈍く光っている。
激しい恫喝を受けながらも、彼女は毅然と背筋を伸ばしていた。グレーの瞳は冷ややかにこちらを見据えているが、その薄い唇の端に浮かぶ微かな笑みには、男を惑わすような妖艶な雰囲気が漂っていた。
だが、私は彼女の美貌に揺らぐような感情を持ち合わせていない。私の目は、彼女を一枚の精密な設計図としてスキャンしていた。
「怒鳴り声は被疑者の思考を一時的にマヒさせるが、同時に防衛本能を硬化させる。尋問の手順が間違っている。自白を引き出すための論理は、恐怖ではなく、観察から得た隙を突くことだ」
私は静かに、彼女のグレーの瞳を正面から見据えた。
「――君が先ほどから、私の部下が発する特定の『単語』に対してだけ、喉の脈拍を僅かに変化させていることに気づいているか」
私が淡々と告げると、彼女のグレーの瞳が鋭く細まり、私を強く睨みつけた。その視線には明確な殺意が宿っていた。しかし、それも一瞬のこと。彼女はすぐに信じられないほどの自己制御で、元の毅然とした、どこか妖艶さすら感じさせる無表情の仮面へと戻ってみせた。




