表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
初恋  作者: 浅見カフカ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/10

姫川佳実

気が付けば、目で追っていた。

放課後の教室の窓から覗く、オレンジ色の校庭。

カモシカのように、ハードルを越えて往く黒い人影。

姫川佳実ひめかわよしみの姿は、どれだけ光に塗りつぶされてても、僕には分かった。

グラウンドの蹴り方。

脚の抜き方。

前傾の角度、腕の位置。

気が付けば、全て覚えていた。


「森くん、ありがとう」姫川はそう言うとノートを机の上に置いた。

「また大会で休んだら貸してあげるよ」僕はそう言うと、姫川が最後に触れていた部分を、気付かれないようにそっと指先で辿った。

「どうした森、顔が赤いぞ」友人の新田が僕の紅潮した頬に気付いて「保健室行くか?」と心配してくれた。

僕と言えば、気持ちに気付かれなかったことに安心していた。

そんなある日のいつもの教室。いつものように夕陽の差し込む窓から、僕はひとり、グラウンドを見ていた。

姫川もいつものようにスタートを切ると、ハードルへ向かった。

僕はそのしなやかな筋肉が収縮を繰り返しながら走る様を想像し、美しい軌道を描きながらハードルを越える姿を脳内に予想した。

だが、ほんのわずかに踏切が違った。

僕の思い描いたものより早く、その分落ちるのも早かった。

姫川のつま先がハードルに触れ、それと共に土埃が上がった。

跳んだ勢いそのままに姫川は滑り、グラウンドからは悲鳴と怒声が上がった。

僕は動かない姫川を、教室の窓から動けずに呆然と見るだけだった。

翌日、登校して来た姫川は見える部分には痛々しく包帯が巻かれ、頬にもガーゼが当てられていた。

その日の放課後、姫川は走らなかった。芝生の上でのストレッチと上半身の筋トレに終始した。

週末をはさんで既に五日目、僕は姫川が駆ける姿を見ていなかった。

教室に入って来た姫川の包帯は、もう取れていた。

僕はまだ残る広範囲のカサブタに、怖くなって目を逸らした。

それから二日、姫川はグラウンドを走り続けた。コースにハードルが並べられたのは、まる一週間を過ぎてからだった。

トラックに立った姫川は、気合いを入れるように頬を叩いた。そして数回、その場で軽く跳躍した。

スタートラインにスタンディングで構えると、上下する肩が止まった。

部員の手合図に小さく土埃が上がった。第一ハードルがみるみる近付き、僕は「えっ」と声を上げた。

早い!先日と同じくらい早い踏切に、やはりハードルを倒してしまった。

すぐに立ち上がった姿に、大きな怪我は無いのだろうと胸を撫で下ろした。

二度目の挑戦は飛べた。しっかりと蹴り、跳んで、飛んだ。

ただ——姫川に一瞬の躊躇が見えた。

その結果は、ゴールで押されたストップウォッチに刻まれていた。そしてそれは姫川も自覚することになった。


「森くんのノート、もう借りなくていいかもしれない」

翌日の教室で、姫川は僕にそう言った。

肩を落として去る背中に、僕は知らない風で問い掛けた。

「どうしたんだい?何か力になれないかな」

「ありがとう。でも、大丈夫」

大丈夫——とても便利な言葉だと思った。姫川は平気なわけでも解決策があるわけでもない。森では役に立たないということを、柔らかく拒絶したのだ。

僕を傷付けないように。

僕は慎重に言葉を選んで、あえて的外れな質問をした。

「怪我の具合が良くないのかい?」

「いや、そうじゃ——」

僕は姫川の言葉を遮って畳み掛けた。

「実は僕は今、スポーツ医療の本を勉強しているんだ。怪我のリハビリや予防法、イップスなんかも調べているんだ」

姫川の目に光が宿ったように見えた。

同時に、心臓を針でつつかれるような痛みを感じた。

「森くん、ちょっと」

姫川は僕の手首を掴むと、教室の外に連れ出した。そのまま空き教室に入ると「ハードルが跳べなくなった」と呟いた。

「それはイップス......なのかい」

「跳ぼうとするとあの失敗を思い出すんだ。踏切を間違えたって」

「あれはかなりの大怪我だったから」

「違うんだ。怪我も痛みも怖くはないんだ。跳べなかったら、失敗したらと思って踏み切りが甘くなるんだ」

姫川は頭を抱えて、その場にしゃがみ込んでしまった。

僕はなんて愚かなことをしたのだろう。僕の軽率さが、姫川の希望になってしまった。僕は小さく震える姫川見下ろしながら、それでも言ってしまった。

「一緒に頑張ろう」

差し出した手を握り返す姫川の手は、とても力強かった。


「適当に跳んでくれるかい?」

「えっ?」

放課後——

陸上部の鮫島先生の許可を得て、僕らは単独練習を始めた。

休み時間は図書室で資料を集め、保健室でも医療書を読み漁った。

そしてクラスの女子にも声を掛けた。

どちらかと言えば、陰キャの僕。話し掛けると最初は構えていた女子たちも「姫川のためなんだ」と言うと快く集まってくれた。

女子たちはカラフルな輪ゴムをいくつも繋げて、その両端をそれぞれが持つと姫川を見た。

戸惑う姫川に「ゴム飛びだよ、やったことあるだろ」と、僕はうながした。

その間に女子たちは「なんか懐かしくてエモいね」なんて口々に言いながら「キャーキャー」と騒いで飛んでいた。

「姫っちも早く飛びなよ。ド陰キャの森が私ら集めたんだからさ」ギャルの河合だ。

姫川は僕を見て「ありがとう」と言うと輪ゴムのハードルへ駆け出した。

「森りんも飛びなよ」

「え?」

「森りんでいいっしょ」河合はそう言うと僕の背中を押した。

僕はよろけるように走って無様に飛ぶと、ゴムに引っ掛かって転んでしまった。

「森りん、ゴム飛びやったことあるだろ」姫川はそう言って大笑いすると、僕の手を引いて起こしてくれた。

その様子に黄色い声が上がった。

それから数日、ケンケンパや鬼ごっこをして僕たちは遊び続けた。

「森りん、なんでコッチ来るの!?」

姫川が慌てて走り出した。

僕の後ろには鬼の河合が追い掛けて来ていた。

「ギャルなのに速いんだよ!」

「中体連の100m県代表だよ、アタシ」

そう聞いた時には背中を思い切り引っぱたかれた。

河合はそのまま姫川を追走して、背の低い植え込みの行き止まりまで追い詰めた。

「姫川もーらい」

そう言って突き出した河合の手が空を切った。

僕はその背中を、身動きひとつ出来ないで見詰めていた。

姫川の背は空を切る河合の手を前傾姿勢で躱すと、宙を跳んだ。

姫川の姿はそのまま植え込みの向こうに消えて行った。

「森りん!」

河合が僕の方を見て目を丸くしていた。僕も思わず両腕を高く挙げて万歳をしていた。


「森りん、ノートありがとう」

姫川はそう言って僕の机にノートを置いた。

「姫っち、おめでとう!」

河合が首を突っ込んできた。

「森りんと河合と、みんなのお陰だなぁ」姫川は目を細めてそう言った。

「でも、110mハードル走で優勝は凄いって」僕がそう言うと「でもどうして男子のハードルはそんな中途半端な距離なの?」と河合が首を傾げた。

「それは昔の距離が120ヤードで、今のメートルに換算すると約110メートルになるのさ」

僕はあの日、必死で調べた資料の中にあった知識を披露した。

「姫っち。私、陸上やろうかな」

「あの鬼ごっこ、速かったもんな」

二人の会話に 心臓がチリチリした。


彼に抱いた恋心は、ついに告白しないで終わった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ