姫川佳実
気が付けば、目で追っていた。
放課後の教室の窓から覗く、オレンジ色の校庭。
カモシカのように、ハードルを越えて往く黒い人影。
姫川佳実の姿は、どれだけ光に塗りつぶされてても、僕には分かった。
グラウンドの蹴り方。
脚の抜き方。
前傾の角度、腕の位置。
気が付けば、全て覚えていた。
「森くん、ありがとう」姫川はそう言うとノートを机の上に置いた。
「また大会で休んだら貸してあげるよ」僕はそう言うと、姫川が最後に触れていた部分を、気付かれないようにそっと指先で辿った。
「どうした森、顔が赤いぞ」友人の新田が僕の紅潮した頬に気付いて「保健室行くか?」と心配してくれた。
僕と言えば、気持ちに気付かれなかったことに安心していた。
そんなある日のいつもの教室。いつものように夕陽の差し込む窓から、僕はひとり、グラウンドを見ていた。
姫川もいつものようにスタートを切ると、ハードルへ向かった。
僕はそのしなやかな筋肉が収縮を繰り返しながら走る様を想像し、美しい軌道を描きながらハードルを越える姿を脳内に予想した。
だが、ほんのわずかに踏切が違った。
僕の思い描いたものより早く、その分落ちるのも早かった。
姫川のつま先がハードルに触れ、それと共に土埃が上がった。
跳んだ勢いそのままに姫川は滑り、グラウンドからは悲鳴と怒声が上がった。
僕は動かない姫川を、教室の窓から動けずに呆然と見るだけだった。
翌日、登校して来た姫川は見える部分には痛々しく包帯が巻かれ、頬にもガーゼが当てられていた。
その日の放課後、姫川は走らなかった。芝生の上でのストレッチと上半身の筋トレに終始した。
週末をはさんで既に五日目、僕は姫川が駆ける姿を見ていなかった。
教室に入って来た姫川の包帯は、もう取れていた。
僕はまだ残る広範囲のカサブタに、怖くなって目を逸らした。
それから二日、姫川はグラウンドを走り続けた。コースにハードルが並べられたのは、まる一週間を過ぎてからだった。
トラックに立った姫川は、気合いを入れるように頬を叩いた。そして数回、その場で軽く跳躍した。
スタートラインにスタンディングで構えると、上下する肩が止まった。
部員の手合図に小さく土埃が上がった。第一ハードルがみるみる近付き、僕は「えっ」と声を上げた。
早い!先日と同じくらい早い踏切に、やはりハードルを倒してしまった。
すぐに立ち上がった姿に、大きな怪我は無いのだろうと胸を撫で下ろした。
二度目の挑戦は飛べた。しっかりと蹴り、跳んで、飛んだ。
ただ——姫川に一瞬の躊躇が見えた。
その結果は、ゴールで押されたストップウォッチに刻まれていた。そしてそれは姫川も自覚することになった。
「森くんのノート、もう借りなくていいかもしれない」
翌日の教室で、姫川は僕にそう言った。
肩を落として去る背中に、僕は知らない風で問い掛けた。
「どうしたんだい?何か力になれないかな」
「ありがとう。でも、大丈夫」
大丈夫——とても便利な言葉だと思った。姫川は平気なわけでも解決策があるわけでもない。森では役に立たないということを、柔らかく拒絶したのだ。
僕を傷付けないように。
僕は慎重に言葉を選んで、あえて的外れな質問をした。
「怪我の具合が良くないのかい?」
「いや、そうじゃ——」
僕は姫川の言葉を遮って畳み掛けた。
「実は僕は今、スポーツ医療の本を勉強しているんだ。怪我のリハビリや予防法、イップスなんかも調べているんだ」
姫川の目に光が宿ったように見えた。
同時に、心臓を針でつつかれるような痛みを感じた。
「森くん、ちょっと」
姫川は僕の手首を掴むと、教室の外に連れ出した。そのまま空き教室に入ると「ハードルが跳べなくなった」と呟いた。
「それはイップス......なのかい」
「跳ぼうとするとあの失敗を思い出すんだ。踏切を間違えたって」
「あれはかなりの大怪我だったから」
「違うんだ。怪我も痛みも怖くはないんだ。跳べなかったら、失敗したらと思って踏み切りが甘くなるんだ」
姫川は頭を抱えて、その場にしゃがみ込んでしまった。
僕はなんて愚かなことをしたのだろう。僕の軽率さが、姫川の希望になってしまった。僕は小さく震える姫川見下ろしながら、それでも言ってしまった。
「一緒に頑張ろう」
差し出した手を握り返す姫川の手は、とても力強かった。
「適当に跳んでくれるかい?」
「えっ?」
放課後——
陸上部の鮫島先生の許可を得て、僕らは単独練習を始めた。
休み時間は図書室で資料を集め、保健室でも医療書を読み漁った。
そしてクラスの女子にも声を掛けた。
どちらかと言えば、陰キャの僕。話し掛けると最初は構えていた女子たちも「姫川のためなんだ」と言うと快く集まってくれた。
女子たちはカラフルな輪ゴムをいくつも繋げて、その両端をそれぞれが持つと姫川を見た。
戸惑う姫川に「ゴム飛びだよ、やったことあるだろ」と、僕はうながした。
その間に女子たちは「なんか懐かしくてエモいね」なんて口々に言いながら「キャーキャー」と騒いで飛んでいた。
「姫っちも早く飛びなよ。ド陰キャの森が私ら集めたんだからさ」ギャルの河合だ。
姫川は僕を見て「ありがとう」と言うと輪ゴムのハードルへ駆け出した。
「森りんも飛びなよ」
「え?」
「森りんでいいっしょ」河合はそう言うと僕の背中を押した。
僕はよろけるように走って無様に飛ぶと、ゴムに引っ掛かって転んでしまった。
「森りん、ゴム飛びやったことあるだろ」姫川はそう言って大笑いすると、僕の手を引いて起こしてくれた。
その様子に黄色い声が上がった。
それから数日、ケンケンパや鬼ごっこをして僕たちは遊び続けた。
「森りん、なんでコッチ来るの!?」
姫川が慌てて走り出した。
僕の後ろには鬼の河合が追い掛けて来ていた。
「ギャルなのに速いんだよ!」
「中体連の100m県代表だよ、アタシ」
そう聞いた時には背中を思い切り引っぱたかれた。
河合はそのまま姫川を追走して、背の低い植え込みの行き止まりまで追い詰めた。
「姫川もーらい」
そう言って突き出した河合の手が空を切った。
僕はその背中を、身動きひとつ出来ないで見詰めていた。
姫川の背は空を切る河合の手を前傾姿勢で躱すと、宙を跳んだ。
姫川の姿はそのまま植え込みの向こうに消えて行った。
「森りん!」
河合が僕の方を見て目を丸くしていた。僕も思わず両腕を高く挙げて万歳をしていた。
「森りん、ノートありがとう」
姫川はそう言って僕の机にノートを置いた。
「姫っち、おめでとう!」
河合が首を突っ込んできた。
「森りんと河合と、みんなのお陰だなぁ」姫川は目を細めてそう言った。
「でも、110mハードル走で優勝は凄いって」僕がそう言うと「でもどうして男子のハードルはそんな中途半端な距離なの?」と河合が首を傾げた。
「それは昔の距離が120ヤードで、今のメートルに換算すると約110メートルになるのさ」
僕はあの日、必死で調べた資料の中にあった知識を披露した。
「姫っち。私、陸上やろうかな」
「あの鬼ごっこ、速かったもんな」
二人の会話に 心臓がチリチリした。
彼に抱いた恋心は、ついに告白しないで終わった。




