里見美禰子
彼女は存在しないが、確かに存在していた。
夏目漱石が書いた三四郎の中で、私も恋敵の一人に加わって読んだものだった。
それだけにあの、どこの誰とも名前すらも知らない金縁眼鏡の色男に持っていかれた結末。
喪失感に打ちのめされた私は、数日間は飯も喉を通らなかった。
ストレイシープ——
美禰子が投げ掛けたこの言葉にこそ、私はすっかり惑ってしまった。
小説の文字を、行を指でなぞり、行間を目で辿る。そして、彼女を喪失する前に頁を閉じて目を伏せる。
変えることの出来ない物語の結末に出来る、たったひとつの抵抗だった。
真新しかった紙が日に焼け、インキの匂いが失われても、私は彼女を目で追い、迷い——失った。
いっそ私も洗礼を受けて加徒力となれば美禰子に近付けるのだろうか。平塚らいてうが通った教会の前。決心のつかぬまま往き来する姿を、家人に見られた私は父の前で正座をさせられた。
「長兄たる自覚を持て」
鉄拳による制裁は免れた私だったが、後日見合いをすることになった。
ああ、何たることだ。
私には美禰子のように口にすべき言葉も持たない。
「我は我が咎を知る。我が罪は常に我が前にあり」
幾度と読み返し覚えた言葉も、洗礼すら無いこの身ではそれはただの音だった。
美禰子と同じ咎人でありながら、私の罪は違う道を歩む私の前にあった。
そう、私には彼女の背を追うことすら赦されなかった。
敷かれた座布団は冷たく感じた。
「清水昭一郎です」仲人にうながされて挨拶をした。
見合い相手は銘銘膳の向こうで座布団を降りた。
「山田ツルです」
頭を下げたツルの手つきの所作は、とても美しいものだった。
「あとはお若い二人にまかせて」
仲人を介しての通り一遍の世間話が一区切りつくと、私たちは庭園の散策を勧められた。
「ここの庭園は、京都の無鄰菴を手掛けた庭師が手入れをしているそうですよ」ツルはそう言うと、色づいた楓に視線を遣った。
「あの山縣有朋公のですか。ツルさんは、こういうことに明るいのですね」感嘆する私に「いいえ、受け売りなんです」と実に明るく笑って見せた。
「隠さないのですね」
「ええ。自分を飾っても私自身の価値は上がりませんから」
「それでしたら何故、無鄰菴のお話を?」私がそう尋ねると「こうしてお話出来たでしょ」と恥じらうように俯いて、再び顔をあげると私の目を見詰めた。
私は「少し歩きましょう」とツルに背を向けた。そうしなければ、この心臓の音を聞かれてしまうと思った。
数歩、歩みを進めて立ち止まった。そして振り向いた私に、少し驚いた表情のツルを見詰めた。
私は会釈よりも少し深く頭を下げると、そのままの姿勢で言った。
「貴女に心臓の音を聞かれてしまうのではと思い、歩きました」
「まぁ」ツルは口元に手を当てると小さく笑った。
「でしたら杞憂でしたわ。私の心臓も先刻から、大きな音を立てていますの」
顔を上げると右手で胸元を押さえるツルの姿があった。
翌年の昭和十五年、梅の蕾が綻ぶ季節に私たちは祝言を挙げた。




