グレタ・ガルボ
——俺が心を奪われた時、彼女はもうこの世界のどこにも居なかった。
「拓也、なに見てるの?」
涼子が俺の首に猫のように、じゃれついてきた。
「グランドホテル」
「うわっ、白黒じゃん」
「戦前の映......画って、お前も映研なら少しは勉強しろよ」
「だってぇ、私は映画を撮れると思って入ったんだもの」涼子は頬を膨らませてそう言った。
「それは同情の余地はあるが、確認しなかった涼子が悪い」
「えっ、誰これ。超絶美人なんですけど」人の話しもろくに聞かずに、涼子はスクリーンに顔を寄せた。
「グレタ・ガルボ」彼女を褒められて悪い気はしなかった。
「へぇ、でももうお婆ちゃんよね」
「もう亡くなってるよ」そう言って涼子の額を小突いた。
「うわ、ちょっと何?」
「別に」俺はそう言うと映画の続きを見始めた。
ハリウッドの古典はローマの休日から入った。オードリー・ヘップバーンの愛らしくも高貴な演技に目を奪われた。それからイングリッド・バーグマンのガス燈などを観漁っているうちに、グレタ・ガルボのあの神秘的な瞳に辿り着いた。
十六歳になったばかりの春だった。
俺は恋に落ちた。
彼女は仕草よりも台詞よりも、先ず瞳で語った。慈しむような瞳には柔らかな光が宿った。挑む時、責める時には鋭い光にそれぞれの温度を乗せた。媚びるような蠱惑的な瞳には、妖しく潤んだ艶。
二十世紀のハリウッド女優だ。
愛した時には、もう失っていた。
「ウチの部、ガルボのクリスチナ女王がないんだよな」
「基本的に他の部員は、スターウォーズやらハリーポッターなんだから仕方ないじゃない」涼子はそう言うと「真面目に映画研究してるのなんて拓也くらいよ」と続けた。
「涼子だって撮影すればいいだろ。そのスマホ、Proだろ。十分に映像は撮れるぜ」
俺がそう言うと涼子は口の端を歪めると「じ、つ、は」と言って隣に腰を下ろした。安いパイプ椅子が軋んで、右側がほんのり暖かくなった。
「文芸部に脚本頼んでるんだよね」そう言うと得意げにフフンと鼻を鳴らした。
「そうか、涼子も動き出してるんだな。で、どんなのをやりたいんだ?」
「タランティーノか北野武ね」
「ああ、あれだ。素人が手を出して大火傷するやつだ」俺がそう言って笑うと「っさいなぁ。冗談に決まってるじゃない。カミサマの真似なんかできっこないの」と言って、頭の後ろで手を組んだ。
「真似する必要なんて無いだろ。逆に、タランティーノも北野武も現役JKの真似は出来ないんだからさ」
「おお、超絶意味不明だけど元気出たよ」涼子はそう言うと「じゃね」と手を振って出て行った。
後には俺と、スクリーンのガルボだけが照明を落とした教室に残された。
俺は少し涼しくなった右腕に手を当てると、再生をクリックした。
梅雨が開けると涼子は部室に来なくなった。雨で押したスケジュールを取り戻すのに必死らしい。
「やっぱり我が家が一番ねぇ」
「旅行帰りかよ」
「しばらく来なかったからね」
部室が急に華やいだ気がした。
「また同じの観てるの?台詞覚えちゃったんじゃないの」
「英語じゃなければな」
「自分で言うんだ、それ」
「これでも自費で三本買ったんだぜ」
俺は指を三本立てて見せた。
「へぇ。それでエリザベス女王は買えたの?」
「クリスチナ女王な。ネットに出ないんだよ」
「残念ね」涼子の瞳が暗い光を宿したように見えた。
夏休みに入ってパルプ・フィクションを買った。涼子が行き詰まっているらしいと、演劇部の友人が言っていた。
まぁ気晴らしになればと思ったのだけれど、七月中は部室に来なかった。
透明フィルムに包まれたままのパッケージを眺めながら、マタ・ハリを観ていた。スパイ容疑で処刑された実在の人物を扱った映画だ。何度見ても悲劇的で、スリリングな内容だった。
マタ・ハリが想い人を庇って上官を射殺した時だった。部室のドアが無遠慮に開けられた。
(涼子は騒がしいな)
そう思った俺の耳を「拓也!」と演劇部の友人の鋭い声が突いた。驚いて振り向くと「篠崎が死んだ」と戸口に立って震える声で言った。
篠崎——それが涼子の苗字と繋がるまで、僅かな間があった。そして涼子だと理解して尚、"死"という非現実な言葉に妙な乖離を覚えた。
通夜の席で、涼子の母親に呼ばれた。
「あなたが拓也くん?」
「はい」俺がそう言うと、擦り傷だらけのDVDのパッケージを差し出した。
「拓也にあげるんだって......」
そう言って家を出た直後の事故だった。
スウェーデン女王のクリスチナを演じられるのは、グレタ・ガルボ以外に居ない。スクリーンの中の彼女はクリスチナ女王そのものだった。
右側に体温を感じた。
驚いて視線を遣ると、暗幕の隙間からの陽射しが俺の肩に落ちていた。
俺が本当の初恋を知った時、彼女はもうこの世界のどこにも居なかった——
愛した時には、もう失っていた。




