新見翔子(中編)
「あれ、翔子さんは?」
「ちょっと、人の顔を見るなり翔子翔子って」理沙さんが頬を膨らませた。
「ああ、いや。あはは。理沙さんの水着、昨日と違うんですね」
「気付いた?連泊だからね、昨日のは洗濯中。将吾くんはどっちが好み?」
理沙さんは腰に手を当てて身体をひねると、波打ち際でポーズをとって見せた。
昨日は流行りのハイレグで、レースクィーンのようで目のやり場に困った。
こうしてポーズをとられると、今日のビキニも目を逸らしてしまう。
「あ、いや......」
救いを求めるように海の家の方に顔を向けると、横から海水を掛けられた。
驚いて理沙さんの方を見ると、追撃の準備に両手で海水を掬う理沙さんの姿があった。
避ける間も無く二発目を受けた俺に、理沙さんは人差し指を目尻に当てて「べぇ」と舌を出すと駆け出して行った。
これは追い掛けるのが礼儀だろうと、俺は追い掛けることにした。——が、俺の追跡は数歩で終わった。
理沙さんが小さな悲鳴をあげて、その場に座り込んでしまった。
「立たないで!」俺は何が起きたかを察すると、次の波が来る前に理沙さんの元に駆けた。
片足を上げて尻もちをつくように座る理沙さんの、背中と膝の後ろに手を回して立ち上がった。
砂に足が沈みながら滑っていくのを、指を曲げて堪えた。
呆気にとられた理沙さんは、我に返ると「えっ、ちょっとこれって」と状況を確認するように首をあちこちに振った。
そして 「ヤダ、恥ずかしいから降ろして」と暴れ始めた。
濡れた肌が腕の中で滑るのを、強く力を込めて抱きとめた。
「しっかり掴まれ、理沙」落とすわけにはいかなかった。俺がそう言うと、一瞬の沈黙の後に理沙さんの腕が俺の首に回った。
海の家に着いた俺は、テーブルの上に理沙さんを寝かした。
俺たちの様子に、他のバイトがテーブルの上のものをよけてくれていた。大将はやかんと救急箱を持ってきて、俺の前に置いた。
「出来るか?」そう大将に聞かれた俺は「とりあえず応急だけして、救護所に運びます」と答えた。
「今日はそのまま上がっていいぞ」
大将はそう言うとカウンターに戻って行った。
「握っててください」
俺は上体を起こした理沙さんの手を取って脛の上に腰を下ろすと、バイトの後輩に合図をした。
やかんの水が、理沙さんの足に掛けられた。絶叫のような悲鳴と共に、砂と血が洗い流さて傷口が露わになった。
俺の手は締めあげられるように握られて、色が変わって見えた。
「大丈夫、大丈夫」
フーフーと息が荒い理沙さんにそう言うと、再び合図をした。
掛けられたオキシドールに、再度絶叫が響いた。
「もう終わったから」
俺はそう言うと、理沙さんの脛から降りて包帯を巻いた。
「貝殻かガラスの欠片を踏んだみたいです」
「ありがとう」
「救護所に行って、その後は宿まで送りますね」
「......うん」
——幸いにして、理沙さんの傷は縫うほどではなかった。
俺は嫌がる理沙さんを背負って、宿への道を歩いた。
「理沙って言った」
「言いましたか?」
「言った」
不意に耳元で抗議を受けた。
「それは——すみませんでした」
「いいの」
この人は何を言いたいんだろう?
「将吾」
「はい」
「これでおあいこ」
「はぁ」
意味は分からなかったが、解決したことは良かった。
「将吾くん」
「なんですか?」
「もう一度、理沙って言って」
「嫌ですよ、怒るもの」
「怒らないから」
「——理沙」
掴まる腕に力が込められて、俺と理沙さんの隙間が埋められていった。
驚いて振り向いた背には、夕陽に赤く染まる理沙さんの顔が見えた。
俺の顔もきっと同じだったと思った。
「理沙!!」
民宿の部屋のドアが勢いよく開けられた。
「将吾くん、ありがとう」
翔子さんは俺の顔を見ると、整わない息のままそう言った。
「じゃぁ帰りますね」
俺は椅子から腰を上げるとそう言ってドアに向かった。
「そんな、将吾くん。一緒にいてあげて」
そう言う翔子さんに俺は首を振った。
「宿泊客じゃないから本当はダメなんですよ。ここの婆ちゃんは昔から知り合いで、こんな怪我だし翔子さんが戻るまで特別って」
上手く話せたかは分からないけど、何とかそう説明した。
「大将に聞いて戻ったの」
ロビーに戻る階段を降りながら翔子さんは言った。ようやく呼吸も戻り、理沙さんの姿も見れて落ち着いたようだ。
「そうなんですね」
そのまま踊り場を経て一階に降りて、長い廊下を歩いた。
小さな民宿の廊下。
長く感じたのは沈黙と、まだ背中に残る理沙さんの肌の記憶のせいだった。
「——子さんは」緊張で声が掠れた。
「翔子さんは、どこに行ってたんですか?」
詮索に思われないよう、精一杯軽く、笑顔で話した。
海が見える大きな硝子戸の廊下。
暗い赤色の陽射しが、影を連れて来ていた。
「この街には、昔来たことがあるの」
過去に触れた言葉に胸がキュッとなった。
「想い出のある場所を眺めていたの。昨日も、今日も」
「明日も——ですか」
「きっと」
太陽が海の向こうで眠りについた。
三日目——
二人は海に来なかった。
四日目は雨に煙る海で、俺はボードに乗っていた。人気のない海はプライベートビーチのようで、雨のサーフィンは嫌いでは無かった。空がとても近く感じるのもの好きな理由のひとつだ。
大将の海の家から少し離れたここは、指定された海水浴場ではなかった。
この場所はもう何年も通っていた。
高校を卒業したら、ここでナイトサーフィンをするのが俺の夢だった。
満月の夜の海に——
大将も怪我をするまでは、よく来ていたそうだ。
『ナイトサーフィンをするなら、海の地形を頭と身体に叩き込めよ』
大将にそう教えられて以来、ここで波に乗り続けてきた。
三角の波が立った。
山の裾野のような角度から、壁のように立ち上がって、崩れたリップが俺を飲み込もうと追って来た。
テイクオフからのライディングは滑らかに決まった。
フェイスを切り裂きながら滑る。
白い飛沫をあげながら、まるで浮遊するような感覚だった。
ボードの先が丘をを向いた時、白いワンピースの女性が視界に入った。
『想い出のある場所を眺めていたの——』
昨日の言葉がリフレインした。
ここが想い出の場所なのだろうか。
「あっ」
一瞬だった。
気を取られているうちに波を読み違えた俺は、波に呑まれて上下の感覚を失った。リーシュコードが左足を引く。
やがて海面から顔を出した俺は、ボードを手繰り寄せると丘に視線を巡らせた。
ワンピースの女性の姿はもう既に無く、強さを増した雨に砂浜にも飛沫が立っていた。
「大将、もう少しで完璧に乗れたんだよ」
開口一番、俺は昨日の練習の話をした。
「なんだ惜しくも失敗か」そう言って笑う大将に、翔子さんに似たワンピースの女性の話をした。
「で、気を取られちゃってさぁ」
「そうか」
大将の顔が曇るのが目で見て分かった。
「大将?」
「ん、ああ。そうだな、将吾。俺がサーフィンを辞めた理由は知っているか?」
大将は店に飾ってあるサーフボードに視線を遣った。
「サーフィン中の事故の怪我が原因だって......」
俺がそう言うと、大将は右膝のえぐれた傷跡に手を当てた。
「もうとっくに治ってる。痛みも痺れも何も無い」
「えっ、じゃぁどうして?」
「死んだんだ」
唐突な重たい言葉に、俺は次の言葉を待った。
「三年前の事故は、俺に衝突した二十歳の青年が行方不明になって、後日遺体で発見された。衝撃でリューシュコードが切れちまってな、彼のボードだけが戻って来たよ」
大将はコップに水を汲むと一気に飲み干した。まるでその時に飲み込んだ、海水の渇きを癒そうとするようだった。
「満月の夜だった。綺麗な三角波が左右に分かれて長いフェイスを作ったんだ。俺は焦ったんだと思う。そして傲慢だった。地元でこんなのは初めて見たんだ。もしかするとチューブの中を滑ることが出来るかもしれない」
「ビッグウェンズデー」俺は思わず古い映画を口にした。
「ああ、約束の無いビッグウェンズデーだ。二度と無いかも知れない。テイクオフの瞬間、右手に人影が見えたんだ。俺は彼が左に行くものだと思った。仮にこちらに来たとしても、先を行く俺に追いつけるはずもないって」
「追いつかれたんですか?」
「そうだ。きっと、無駄のない綺麗なライディングだったんだろうな。頭上でアーチを描きながら徐々に作られていくチューブに、俺は五感の全てを奪われていた。それだけに、衝突の瞬間は何が起きたかを理解出来なかった。焼けるような痛みが走って、藻屑のように波に揉まれた。そして俺はボードに引きずられるようにビーチに打ち上げられたよ」
「彼はそのまま——」俺は言いかけて止めた。聞いていた結末だ。
「彼の名を呼ぶ彼女の絶叫は、今も耳に残っている。コウちゃん、コウちゃんって。新見翔子——彼女の声だ」
俺は大将の顔を見上げた。
「貸し出し名簿の名前を見た時にまさかと思って、彼女の声に確信したよ。川村光一のかつての恋人だって」
絶句した。
望めばなんだって手に入ると信じていた頃——翔子さんは全てを喪っていた。
そしてそれは大将も。
「ルール違反をした俺は批判されて当然だった。だが、彼に酒を提供したという海の家が現れると雲行きが変わった。そして彼の遺体からアルコールが検出された」
そう言った大将の顔は、より一層曇っていった。
「もしかして海の家が色々と制限されたのって」
「ああ、これがきっかけだ」
大将は再び立ち上がると、飾っていたボードに触れた。
指先がレールを愛おしそうに撫でた。まるで何かに別れを告げるように。
「将吾、これ持っていけ」
「えっ」
「バイト代の先払いだ。手入れは欠かさずしてある」
「良いんすか」
「ああ。その代わり、バイトサボったら取り上げるからな」
そう言って笑う大将は、いつもの大将だった。




