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初恋  作者: 浅見カフカ


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6/9

新見翔子(中編)

「あれ、翔子さんは?」

「ちょっと、人の顔を見るなり翔子翔子って」理沙さんが頬を膨らませた。

「ああ、いや。あはは。理沙さんの水着、昨日と違うんですね」

「気付いた?連泊だからね、昨日のは洗濯中。将吾くんはどっちが好み?」

理沙さんは腰に手を当てて身体をひねると、波打ち際でポーズをとって見せた。

昨日は流行りのハイレグで、レースクィーンのようで目のやり場に困った。

こうしてポーズをとられると、今日のビキニも目を逸らしてしまう。

「あ、いや......」

救いを求めるように海の家の方に顔を向けると、横から海水を掛けられた。

驚いて理沙さんの方を見ると、追撃の準備に両手で海水を掬う理沙さんの姿があった。

避ける間も無く二発目を受けた俺に、理沙さんは人差し指を目尻に当てて「べぇ」と舌を出すと駆け出して行った。

これは追い掛けるのが礼儀だろうと、俺は追い掛けることにした。——が、俺の追跡は数歩で終わった。

理沙さんが小さな悲鳴をあげて、その場に座り込んでしまった。

「立たないで!」俺は何が起きたかを察すると、次の波が来る前に理沙さんの元に駆けた。

片足を上げて尻もちをつくように座る理沙さんの、背中と膝の後ろに手を回して立ち上がった。

砂に足が沈みながら滑っていくのを、指を曲げてこらえた。

呆気にとられた理沙さんは、我に返ると「えっ、ちょっとこれって」と状況を確認するように首をあちこちに振った。

そして 「ヤダ、恥ずかしいから降ろして」と暴れ始めた。

濡れた肌が腕の中で滑るのを、強く力を込めて抱きとめた。

「しっかり掴まれ、理沙」落とすわけにはいかなかった。俺がそう言うと、一瞬の沈黙の後に理沙さんの腕が俺の首に回った。

海の家に着いた俺は、テーブルの上に理沙さんを寝かした。

俺たちの様子に、他のバイトがテーブルの上のものをよけてくれていた。大将はやかんと救急箱を持ってきて、俺の前に置いた。

「出来るか?」そう大将に聞かれた俺は「とりあえず応急だけして、救護所に運びます」と答えた。

「今日はそのまま上がっていいぞ」

大将はそう言うとカウンターに戻って行った。

「握っててください」

俺は上体を起こした理沙さんの手を取って脛の上に腰を下ろすと、バイトの後輩に合図をした。

やかんの水が、理沙さんの足に掛けられた。絶叫のような悲鳴と共に、砂と血が洗い流さて傷口が露わになった。

俺の手は締めあげられるように握られて、色が変わって見えた。

「大丈夫、大丈夫」

フーフーと息が荒い理沙さんにそう言うと、再び合図をした。

掛けられたオキシドールに、再度絶叫が響いた。

「もう終わったから」

俺はそう言うと、理沙さんの脛から降りて包帯を巻いた。

「貝殻かガラスの欠片を踏んだみたいです」

「ありがとう」

「救護所に行って、その後は宿まで送りますね」

「......うん」


——幸いにして、理沙さんの傷は縫うほどではなかった。

俺は嫌がる理沙さんを背負って、宿への道を歩いた。

「理沙って言った」

「言いましたか?」

「言った」

不意に耳元で抗議を受けた。

「それは——すみませんでした」

「いいの」

この人は何を言いたいんだろう?

「将吾」

「はい」

「これでおあいこ」

「はぁ」

意味は分からなかったが、解決したことは良かった。

「将吾くん」

「なんですか?」

「もう一度、理沙って言って」

「嫌ですよ、怒るもの」

「怒らないから」

「——理沙」

掴まる腕に力が込められて、俺と理沙さんの隙間が埋められていった。

驚いて振り向いた背には、夕陽に赤く染まる理沙さんの顔が見えた。

俺の顔もきっと同じだったと思った。


「理沙!!」

民宿の部屋のドアが勢いよく開けられた。

「将吾くん、ありがとう」

翔子さんは俺の顔を見ると、整わない息のままそう言った。

「じゃぁ帰りますね」

俺は椅子から腰を上げるとそう言ってドアに向かった。

「そんな、将吾くん。一緒にいてあげて」

そう言う翔子さんに俺は首を振った。

「宿泊客じゃないから本当はダメなんですよ。ここの婆ちゃんは昔から知り合いで、こんな怪我だし翔子さんが戻るまで特別って」

上手く話せたかは分からないけど、何とかそう説明した。

「大将に聞いて戻ったの」

ロビーに戻る階段を降りながら翔子さんは言った。ようやく呼吸も戻り、理沙さんの姿も見れて落ち着いたようだ。

「そうなんですね」

そのまま踊り場を経て一階に降りて、長い廊下を歩いた。

小さな民宿の廊下。

長く感じたのは沈黙と、まだ背中に残る理沙さんの肌の記憶のせいだった。

「——子さんは」緊張で声がかすれた。

「翔子さんは、どこに行ってたんですか?」

詮索に思われないよう、精一杯軽く、笑顔で話した。

海が見える大きな硝子戸の廊下。

暗い赤色の陽射しが、影を連れて来ていた。

「この街には、昔来たことがあるの」

過去に触れた言葉に胸がキュッとなった。

「想い出のある場所を眺めていたの。昨日も、今日も」

「明日も——ですか」

「きっと」

太陽が海の向こうで眠りについた。


三日目——

二人は海に来なかった。

四日目は雨に煙る海で、俺はボードに乗っていた。人気のない海はプライベートビーチのようで、雨のサーフィンは嫌いでは無かった。空がとても近く感じるのもの好きな理由のひとつだ。

大将の海の家から少し離れたここは、指定された海水浴場ではなかった。

この場所はもう何年も通っていた。

高校を卒業したら、ここでナイトサーフィンをするのが俺の夢だった。

満月の夜の海に——

大将も怪我をするまでは、よく来ていたそうだ。

『ナイトサーフィンをするなら、海の地形を頭と身体に叩き込めよ』

大将にそう教えられて以来、ここで波に乗り続けてきた。

三角の波が立った。

山の裾野のような角度から、壁のように立ち上がって、崩れたリップが俺を飲み込もうと追って来た。

テイクオフからのライディングは滑らかに決まった。

フェイスを切り裂きながら滑る。

白い飛沫しぶきをあげながら、まるで浮遊するような感覚だった。

ボードの先が丘をを向いた時、白いワンピースの女性が視界に入った。

『想い出のある場所を眺めていたの——』

昨日の言葉がリフレインした。

ここが想い出の場所なのだろうか。

「あっ」

一瞬だった。

気を取られているうちに波を読み違えた俺は、波に呑まれて上下の感覚を失った。リーシュコードが左足を引く。

やがて海面から顔を出した俺は、ボードを手繰り寄せると丘に視線を巡らせた。

ワンピースの女性の姿はもう既に無く、強さを増した雨に砂浜にも飛沫が立っていた。


「大将、もう少しで完璧に乗れたんだよ」

開口一番、俺は昨日の練習の話をした。

「なんだ惜しくも失敗か」そう言って笑う大将に、翔子さんに似たワンピースの女性の話をした。

「で、気を取られちゃってさぁ」

「そうか」

大将の顔が曇るのが目で見て分かった。

「大将?」

「ん、ああ。そうだな、将吾。俺がサーフィンを辞めた理由は知っているか?」

大将は店に飾ってあるサーフボードに視線を遣った。

「サーフィン中の事故の怪我が原因だって......」

俺がそう言うと、大将は右膝のえぐれた傷跡に手を当てた。

「もうとっくに治ってる。痛みも痺れも何も無い」

「えっ、じゃぁどうして?」

「死んだんだ」

唐突な重たい言葉に、俺は次の言葉を待った。

「三年前の事故は、俺に衝突した二十歳はたちの青年が行方不明になって、後日遺体で発見された。衝撃でリューシュコードが切れちまってな、彼のボードだけが戻って来たよ」

大将はコップに水を汲むと一気に飲み干した。まるでその時に飲み込んだ、海水の渇きを癒そうとするようだった。

「満月の夜だった。綺麗な三角波が左右に分かれて長いフェイスを作ったんだ。俺は焦ったんだと思う。そして傲慢だった。地元でこんなのは初めて見たんだ。もしかするとチューブの中を滑ることが出来るかもしれない」

「ビッグウェンズデー」俺は思わず古い映画を口にした。

「ああ、約束の無いビッグウェンズデーだ。二度と無いかも知れない。テイクオフの瞬間、右手に人影が見えたんだ。俺は彼が左に行くものだと思った。仮にこちらに来たとしても、先を行く俺に追いつけるはずもないって」

「追いつかれたんですか?」

「そうだ。きっと、無駄のない綺麗なライディングだったんだろうな。頭上でアーチを描きながら徐々に作られていくチューブに、俺は五感の全てを奪われていた。それだけに、衝突の瞬間は何が起きたかを理解出来なかった。焼けるような痛みが走って、藻屑のように波に揉まれた。そして俺はボードに引きずられるようにビーチに打ち上げられたよ」

「彼はそのまま——」俺は言いかけて止めた。聞いていた結末だ。

「彼の名を呼ぶ彼女の絶叫は、今も耳に残っている。コウちゃん、コウちゃんって。新見翔子——彼女の声だ」

俺は大将の顔を見上げた。

「貸し出し名簿の名前を見た時にまさかと思って、彼女の声に確信したよ。川村光一のかつての恋人だって」

絶句した。

望めばなんだって手に入ると信じていた頃——翔子さんは全てを喪っていた。

そしてそれは大将も。

「ルール違反をした俺は批判されて当然だった。だが、彼に酒を提供したという海の家が現れると雲行きが変わった。そして彼の遺体からアルコールが検出された」

そう言った大将の顔は、より一層曇っていった。

「もしかして海の家が色々と制限されたのって」

「ああ、これがきっかけだ」

大将は再び立ち上がると、飾っていたボードに触れた。

指先がレールを愛おしそうに撫でた。まるで何かに別れを告げるように。

「将吾、これ持っていけ」

「えっ」

「バイト代の先払いだ。手入れは欠かさずしてある」

「良いんすか」

「ああ。その代わり、バイトサボったら取り上げるからな」

そう言って笑う大将は、いつもの大将だった。



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