立花渚
僕の初恋は猫を連れてやって来た。
いや、猫が初恋を連れて来たのかもしれない。
「隣に越して来ました立花です」
夏休みの気怠い昼下がり。
チャイムの音に玄関ドアを開けると、上品そうなおばさんが立っていた。
少し緊張した笑顔で「お家の人はいますか?」と前かがみで僕に言った。
「今呼んで来ます」そう言おうとした時だった。
「なっつ、ダメ!」おばさんの後ろから鋭い声と、灰色の小さな塊が飛び込んできた。
猫だ。
「なっちゃん!!渚、どうして出したの」
おばさんは振り返ってそう言うと、その横を「おじゃまします!」と言って女の子が駆け抜けて行った。
後には脱ぎ散らかした靴と、狼狽するおばさんと、呆気にとられた僕が残されていた。
「ごっ、ごめんなさい」
おばさんは僕に必死に謝りながら、上がっていいのか、悪いのか足踏みするように膝を動かしていた。
「立花さん?こんにちは、もし良ければ上がってらして」背中で母さんの声が聞こえた。
振り向くと猫を抱えた母さんが、女の子の手を引いて廊下を歩いて来た。
「祐介、スリッパをお出しして。ふたつよ」母さんはそう言うと、猫を抱えたままリビングに戻って行った。
「本当に、すみませんでした」
おばさんはそう言うとデパートの包の箱を母さんに差し出した。
「隣に越して来ました立花です」さっき聞いた挨拶を、母さんにもう一度した。
「ご丁寧にありがとうございます。漆原です。渚ちゃんは幾つ?」
母さんは相変わらず猫を抱いたまま、女の子に声を掛けた。
「十一歳です」
「あら、祐介と同い年ね。啓成小学校?」
「夏休みが終わったら通います」
「五年生は二クラスしかないから、同じクラスになるかもしれないね」
母さんはそう言うとおばさんに向かって「よろしくお願いします」と言った。
猫はすっかり母さんの腕の中でくつろいでいた。
「なっちゃんはお利口さんね」母さんは猫のお尻をポンポンと指で叩きながら、猫にも話しかけていた。
「猫も娘も突然上がってしまって......」
おばさんは再び恐縮するように肩をすぼめると、小さく頭を下げた。
「とんでもない。こうして一緒にお茶も飲めましたし、渚ちゃんと祐介が同学年と知れましたし、なっちゃんのおかげよね」背中を撫でられた猫は大きくあくびをした。そして急に居心地悪そうにモゾモゾと動き出した。
「はい、渚ちゃん」
母さんは立ち上がると渚に猫を渡した。猫はグルグルと喉を鳴らすと渚の腕に顔を擦り付けていた。
「やっぱり緊張してたのね」母さんが残念そうに言うと「なっちゃんが初めての人に抱かれてるのを初めて見ました」と渚が言った。
おばさんも立ち上がって「長居してすみませんでした」と挨拶すると「祐介くん、よろしくね」となっちゃんを抱いた渚が小さく手を降った。
「よろしく」
多分、席に着いてから僕が喋った言葉はこれだけだった。
「渚ちゃん、可愛かったね」
その日、夕飯の支度をしながら母さんがそう言った。
「別に」僕は本心を悟られないようにそう言った。
可愛かった。
猫の目よりもコロコロ変わる表情に、揺れるポニーテール。
小さく振った手も僕に向けた「よろしくね」も、全部全部可愛かった。
僕の初恋は猫が連れて来たんだ。
夏休みが明けて、東京から転校生がやって来た。
色めき立つ教室で、僕だけが特別な気持ちでいた。
転校生は立花渚。猫のなっちゃんの飼い主で、好きな食べ物はポッキー。マリカーはクッパしか使わない。
僕だけが先に知っているんだ。
あれから夏休みのほとんどを渚と遊んだ。
なっちゃんとも随分仲良くなった。
外で会うと「にゃぁ」と鳴いてくれるくらいの仲にはなった。
「祐介の隣に引っ越してきたの?」
「なんで黙ってたんだよ」
「祐介、顔赤いぞ」
「芸能人見たことある?」
「はいはい、お前らうるさいから少し口閉じろ」
先生はパンと大きく手を叩いて騒がしい教室を静かにした。
渚は瞬く間にクラスの人気者になっていった。
スタアダムを駆け昇るアイドルのように見えた。
それでも彼女は頻繁に我が家を訪れ、マリカーをしてマンガを読んで、たまに泊まっていった。
そんな僕らの関係が変化を見せたのは中二になってからだった。
渚はあまり家に来なくなった。
表敬訪問を欠かさない親善大使のなっちゃんとは正反対だ。
「キミの飼い主はどうしたんだろうね」
四年の月日ですっかり親友になった僕がそう話しかけても、なっちゃんは大きくあくびをするだけだった。
「渚ちゃん、彼氏出来たんだね」
母さんの突然の言葉に、心が鉛のように重たく沈んでいった。
「知らん」いつかの『別に』とは違う。本当に知らなかった。息が苦しい。
「あれは高校の制服ね」
母さんの言葉が耳鳴りのように近く遠く、グワングワンと聞こえていた。
高校に入ると、渚は家にも寄り付かなくなった。それでもなっちゃんだけは、毎日我が家にやって来た。
「もう祐介くんのなっちゃんね」
立花のおばさんは冗談とも本気とも取れないことを、ため息混じりに言った。
「うちの子になるか?なっつ」
夜、ベッドに潜り込んできたなっちゃんを抱きかかえると「にゃぁ」と鳴いて腕からすり抜けて行った。
「そうだよな、お前は渚のなっちゃんだよな」
僕はもう何年も口もきいていない、顔すら見ていない渚の名前を口にした。
思い浮かぶ顔は中一の頃の渚だった。今の顔を僕は知らない。
「どうしてこうなったんだろうな」
独りごちた僕になっちゃんは「にゃぁ」と答えると、ドアの隙間から出て行った。
「祐介、彼女出来たの!?」
渚の時には驚かなかった母さんが、僕の時に驚くのは納得がいかなかった。
「近藤静香です。お邪魔します」
高校のクラスメイトの静香を連れて来た日曜日、挨拶をした彼女の前で母さんは目を丸くしていた。
部屋に案内する背中に「あんた、ドアは開けとくんだよ」と要らない一言がかけられた。
僕は応えなかった。部屋のドアは小五の夏休みからずっと開け放したままだ。
静香はベッドに腰を掛けると、ゆっくりと部屋を見回した。
「なんか、弟の部屋とは違うね」
「同じ部屋なんてないでしょ」
「ううん。そうじゃなくって、男の子の部屋って感じ」
静香はそう言うと僕に身体を寄せた。
なんだか変な間だった気がしたけれど、お互いに慣れていなくて、妙に一生懸命だった。
僕も油の切れた機械のような動きで、彼女の肩に腕を回した。
そんな僕を嘲笑うように、ドアの隙間をするりと抜けたなっちゃんが、しなやかな肢体で音もなくベッドに飛び乗ると、僕の太ももの上で丸くなった。
(ちょっと邪魔です)
僕の心を読んだのか、キスまでの距離に割って入ったなっちゃんは満足気な表情で「にゃぁ」と鳴いた。
「いやぁ!カワイイ!!」
静香は「触っていい?」と僕となっちゃんを交互に見ると、喉に指を当ててくすぐるように動かした。
なっちゃんはゴロゴロと喉も鳴らさずに、プイと僕の太ももから飛び降りて行った。
この日、僕はファーストキスに失敗した。
静香との交際も順調だった。お互いの家を行き来するようになって、両親とも仲良くなった頃。
高三の春だった。
桜が満開の通学路を静香と二人、駅まで歩いていた。
今日はこのまま制服デートの約束をしていた。今日封切りの映画を観る予定だった。
不意に携帯が鳴った。
立花のおばさんからだった。
小学生の頃以来の着信だった。
「もしもし」
『祐介くん!渚が渚が』
取り乱したおばさんの声。隣に居る静香にもそれは聞こえるくらいだった。
「渚って、祐介くんの隣の?」
「ああ、なんか彼氏のバイクが事故って重体だって」
「——行かないよね」
静香が僕の制服の袖を摘んで、引いた。
「行くだろ、普通」
「だって、立花渚だよ。私のいた中学でも名前を聞いた子だよ」
「事故は自業自得だって言うのか?」
「家にも帰らないで、どうせ学校だって行っているかどうかも分からない子じゃない」静香はうっすらと目を潤ませて、大きな声を出した。僕はこんな静香を初めて見た。
「そうだね。起こるべくして起きた事故かもしれない。でもね、だからと言ってこんな目に遭って良い訳じゃないし、少なくともずっと苦しんで来た立花のおばさんやおじさんが、悲しんで良い訳じゃない。分かるよね」
僕は静香を諭すように言った。
行き交う人達は僕たちに好奇な視線を向けて去って行く。
静香はゆっくりと袖から手を離した。
「分かった」
僕が安堵の表情を見せたのと同時だった。
「別れる」短くそう言って静香は駆け出し、去って行った。
僕は追い掛けなかった。
通り掛かったタクシーを止めて、渚が運ばれた総合病院に向かった。
映画代と食事代と——今日がデートの日である意味良かったと思った。
普段なら千円も無い時もあった。
病院に着くと立花のおじさんが、職員に羽交い締めにされていた。おじさんの前には、顔中を血まみれにした男が倒れていた。
あれが渚の彼氏らしい。
僕は母さんの案内でリノリウムの床を蹴るように走った。赤いランプの灯る扉の前で、憔悴しきった立花のおばさんが立ち尽くしていた。
ただ、ランプを見詰めながら。
おばさんは僕に気付くと「わぁわぁ」と子供のように声を上げて泣き始めた。
僕に縋るように抱きつくと、一層大きな声で泣いた。
日付が変わってもランプは消えなかった。
僕は舟を漕ぐように、揺れては目を覚ますを繰り返していた。
何度目だったか。
僕と渚は部屋でマリカーをしていて、ポニーテールの揺れるクッパを、僕のドンキーコングが追い掛けていた。
ああ、これは夢だ。
混濁する意識の中でそう思いながら、渚を先に行かせてはいけないという思いに唐突にかられた。
もうダメだと思った。
ゴールへ独走する渚に、やけくそで投げた甲羅が当たった。
クルクルとスピンするクッパの横を、僕が駆け抜けてゴールをしたところで目が覚めた。
同時に、床に映る赤い光が消えた。
「一命は取り留めました」
医者の含みのある言い方が気になったが、安心したおばさんは、糸が切れた人形のようにその場に崩れた。
おじさんはその後の医者の言葉に目を見開き、ストレッチャーの渚に慈しむような憐れむような目を向けた。
午前三時。
僕の一日はようやく終わった。
父さんの迎えで家に帰るまではそう思っていた。
帰宅した僕を迎えたのは、母さんではなかった。
「にゃぁ」
なっちゃっんが大きな声で鳴いた。
静香の腕の中で。
「ごめんなさい。立花さん、助かって良かった」
静香はそう言うと、堰を切ったように泣き始めた。
背中に落ちる雫になっちゃんは身を捩ると、リビングに姿を消した。
父さんが僕の背中をトンと押して、横をすぎて行った。
触れる程度の強さで。
それで十分だった。
僕は静香を強く強く抱き締めると「ごめん」と言って頭の後ろを撫でた。
その日、僕たちは一緒に学校を休んだ。両家公認で、昼すぎまで一緒に寝ていた。目を覚ますと僕たちの間には、なっちゃんが丸まって寝ていた。
「一人で映画を観たの」先に目を覚まして、なっちゃんを撫でていた静香が口を開いた。
「泣いちゃった。途中でもう話が分からなくなるくらい」
僕は黙って話を聞いていた。
「もう一度行かなくちゃね」
静香の言葉に僕は頷いて「次は一緒に笑おう」と、観るはずだったコメディ映画の約束を再び交わした。
渚が退院する日、僕は立花のおじさん達と病院に行った。
渚は右脚の膝から下を失っていた。
「久しぶりだな」
「そうだね」素っ気ない返事だった。
「なっちゃん、待ってるぞ」
「祐介に随分懐いたって聞いたよ」
「うちの子になるかって聞いたら腕からするっと抜けていったよ。今までもこれからも立花なっちゃんだよ、アイツは」僕がそう言うと、渚は初めて笑顔を見せた。
「帰ったらマリカーしようぜ」
「彼女、大丈夫かよ」渚はそう言って、今度は声を出して笑った。




