小鳥遊明日香
あの人は悪い人だ——
十二歳の時、両親が離婚した。
小学六年の秋だった。父さんが家を出て行ったので、僕は転校を免れた。
卒業式と入学式は母さんだけが出席した。ただ、父さんは「母さんには内緒だ」と言って事ある毎にお祝い金をくれた。
父さんはその度に僕を家に呼んだ。
初めて父さんの住むマンションに行った時、若い女の人が僕を出迎えた。
明るい茶色に染めた肩までの髪に、袖の長めのトレーナー。
小鳥遊明日香。
ついこの間まで僕が名乗っていた苗字を名乗るこの人が、父さんの新しい奥さんだ。歳はひと回り違うと、聞いてもいないのに彼女は教えてくれた。
二十二歳だと言っていた。僕の方が歳が近かった。
「パパが戻るまで上がって待っていてね」明日香さんはそう言って僕を招き入れると、暖かいココアを作ってくれた。お湯じゃない、牛乳を沸かして粉を溶かしたココアだった。
美味しい!!
そう思ったが、顔には出さなかった。
彼女は僕と母さんから苗字と父さんを奪ったのだ。
この人は悪い人だ。
僕はいい匂いのする彼女をキッと睨んだ。
彼女はそんな僕など意に介さずに「秀くんはクッキー好き?」と聞いて、僕が返事をする前にクッキーを差し出した。
白っぽい色からキツネ色までのグラデーション。僕がそれを眺めていると「ごめんね、私が焼いたから色がムラだらけね」と照れたように俯いた。
クッキーは少し硬かったけれど、甘くて美味しかった。
母さんには内緒だ——
僕は父さんの意図とは別の理由で、この約束を成人するまで守り続けた。
父さんが出張先のビジネスホテルで急逝した。
僕が二十三歳、社会人一年目の年だった。
明日香さんが喪主となった葬儀に、母さんは参列しなかった。僕も一般参列のつもりで通夜に向かったが、親族側に通された。二人の間に子供は無く、僕が明日香さんの隣に立つことになってしまった。少し疲れた様子の明日香さんの頬には、ほつれた髪が張り付いていた。
初七日、四十九日、一周忌。
父さんの——いや、明日香さんのマンションへ行く口実がどんどん遠くなっていった。
十二歳のあの日、僕は彼女に淡い恋心を抱いてしまった。
父さんに対しての気持ちは、正直微塵も無かった。でも、やはり母さんを思うとこれは僕が最も抱いてはいけない感情だった。
だから僕は、彼女を悪い人と思うことで母を、そして僕の感情を守ってやろうと思った。
それでも父さんに呼び出された日は、彼女の顔ばかりが浮かんで心が弾んだ。
その反面では、母さんがパートで稼いだお金で改札を通る自分の卑しさにチリチリと胸に痛みを感じた。
そんな気持ちを抱えながらも、僕は約束の時間より早くに行って、明日香さんとの時間を楽しんだ。
「秀くんは、お父さんに会うのが本当に楽しみなのね」
ココアを卒業して珈琲が出されるようになった頃だ。湯気の向こうで明日香さんが言った。
僕は怪訝な顔で珈琲を口にした。
——苦い。
なんとなくブラックで飲むのがかっこいいと思っていたので、砂糖もミルクも断っていた。
「いつも、早めに来るでしょ」と彼女は苦味の向こう側で微笑むと、すぐに申し訳なさそうな表情を見せた。
「私もね、お父さんが家を出て行ったの。秀くんと同じ歳の頃ね。気持ち、よく分かっていたのに.......ごめんなさい」
最後まで言い終える前に彼女は席を立つと、背中を向けてキッチンに消えた。
次に戻った時、彼女の手には小皿に盛られた生クリームがあった。
「ウィンナコーヒー」そう言うと、僕のカップにスプーンで掬った生クリームを乗せてくれた。
「もうすっかり苦い珈琲も平気ね」
一周忌を迎えて、明日香さんもすっかり笑えるようになっていた。
「大人に見られたくて見栄を張るうちは、やっぱり子供でしたね」
僕もそう言って笑いかけた。
そして法要の祭壇にある父さんの遺影を、背中で隠すように立ち上がった。
「明日香さん。僕は——僕は、あなたが好きでした。初めて会った日、初恋の感情が芽吹いたのを今でも覚えています」
彼女は黙って聞いていた。
明るい茶色だった彼女の髪は、自然で艶やかな黒い髪になっていた。
僕も喉仏が張り出して、すっかり声も低く、背丈も彼女をゆうに越えていた。
きっと、倫理として僕は間違えているのだろう。それでも僕は男として彼女の前に立ちたかった。
——決別の為に。
「ありがとう」彼女は小さく呟くと、おもむろに立ち上がった。
「気持ち......よく分かっていたわ」
明日香さんはいつかのようにそう言うと、正面から身体を寄せて腰に手を回した。肩口に乗せた顎を僕の方に向けると、頬に唇が触れた。柔らかな、僅かに湿り気を帯びた熱を感じた。
僕も彼女を抱き寄せるように強く背中に手を回した。
感じた心音が重なり、体温がひとつに溶けていくのを感じた。
不意に彼女の腕から力が抜けた。
僅かに離れた身体の隙間を室温が冷ましていく。
「さよなら、秀くん。私はあなたから奪うばかりね」
「いえ、この恋心は捧げたものです」
僕がそう言うともう一度、頬に唇が触れた。それは柔らかさはそのままに、乾いたものだった。




