倉田由美子
あの頃の僕は、教室の隅で小説を読んでいた。
不意に四月の風がカーテンを揺らして、頁をめくり、倉田由美子の艶やかな髪をなびかせた。ふと指先に触れた湿度を帯びた冷たい感触。
『彼女の髪の毛は、その時、私の指先へ、生きた動物の毛のように、冷たく、滑っこく、しがみついて来た。』
僕は梶井基次郎の小説【愛撫】の一文を思い出して、鼓動が早くなるのを感じた。彼女と目が合う前に慌てて俯いた視線の先——
愛撫の正体は桜のひとひらだった。
僕は花弁を摘むと小説の頁に乗せて、そっと本を閉じた。訪れた初恋を閉じ込めるように。
その日から僕は、気が付けば視線で彼女を追っていた。そして彼女が笑う度に、心に灯火がともるように優しい気持ちになった。
あの日の桜は、押し花の栞になった。
「鈴木くんはいつも本を読んでいるね」
ある日そう話しかけられたのを覚えている。耳たぶまで熱くなって、ようやく絞り出した返事が「ああ」だった。
そして間もなく、季節と一緒に僕の心も梅雨に入った。
あれほど軽やかだった気持ちが重たい。肌にまとわりつくこの湿度のように嫌な感情。
——嫉妬と諦念。
女子同士で話す輪の中に、お調子者の篠山が混じるようになった。
やがて倉田はその輪にいるよりも、篠山といる時間が長くなっていった。
僕はただそれを、教室の隅で見ているだけだった。
雨の輪が踊る駅までの道。
ひとつの傘に入る二人の後ろを避けて、途中の書店に逃げ込んだ。
そんな気持ちも、いつしか諦念という感情がかさぶたのように心を覆ってくれるようになった。
文化祭が終わる頃には、痛みにも慣れて感じなくなっていった。
それでも栞は、あの日の桜の押し花のままだった。
「貴方の小説、読んだことあるわ」
倉田由美子は二次会のカウンターで背中を丸める僕の隣で、カルアミルクを手にそう言った。
毛先を遊ばせたハッシュカットボブ。
彼女は高二の秋のある日、長い髪をショートにして登校してきた。その日から、篠山の姿は彼女の隣から消えた。
「ずっと、短いまま?」
僕はいつかの時のように、彼女の言葉にきちんと答えられなかった。
「なんだか、変わらないね。鈴木くんは」彼女はそう言って小さく笑うと「ショートって、楽でいいのよ」と、耳元で囁くように言った。
店の照明が暗くて良かった。
僕はまた、耳たぶまで真っ赤になっていると思う。
彼女の言う通り、三十路を迎えてもまだ変わっていない——変われていないのだろう。打ち明けること無かった倉田由美子への想いは。
「すごいね、小説家だなんて」
「いや」僕は小さく首を振った。
「小さな賞を獲っただけで、小説家としては食えていないんだ」
「そうなの?」
倉田由美子は目を丸くして僕を見た。
「普段は作業服を着て工場務めだよ」
見栄を張っても僕が傷付くだけだ。僕はありのままを正直に伝えた。
「私も普段はスーパーのレジ係よ」
彼女はそう言って、バーコードをスキャンする仕草を見せた。それは何かを隠すように、おどけて見せるようにも見えた。
カラン。
手のひらの中で、グラスの氷が崩れた。
水筒の中で音を立てた氷は、麦茶と一緒に揺れていた。倉田は昼休みが始まると、いつものように篠山と教室を出て行った。
僕は鞄から昨日買った読みかけの文庫本を取り出した。開いた頁には、いつもの桜の栞。瑞々しさが失われた花弁に零れた笑いは、どこか乾いたものだった。
何度か捨ててしまおうと思ったが、あの日抱いた気持ちを捨てることはどうしても出来なかった。
嫌いになれたらどんなに楽だろうか——
「鈴木くん。私って、嫌な女でしょ」
「そんなこと——」
どうしてそんなことを聞くのか分からない僕に「私のこと、好きだったでしょ」と少し上目遣いで倉田は言った。
僕は言葉に詰まって、頷くことも出来ずに倉田を見ていた。
「ふふ、嫌な女でしょ」
「そんなこと——」
僕は同じ言葉を繰り返した。
「篠山......来るかなって少し思ってたんだ」倉田は呟くように言った。
「来なかったね」
僕がそう言うと倉田は頷いた。
「一次会でさ、襖が開く度に篠山かなって見るんだけど違ってさ。最後に来たのが鈴木くんだった」
「それは......なんだか申し訳ない」
僕がそう言うと、倉田は吹き出すように笑って「真顔で謝らないでよ」と背中を軽く叩いた。
「真面目なのも相変わらず」
多分そう言っていたと思う。
それよりも僕は、まだ背中に残る倉田の指先の感触に、擦半を打つ心臓を抑えるのに必死だった。
心臓を掴まれて潰されると、きっとこんなに苦しいのだろう。
高二の秋だった。
騒がしい週明けの教室。登校した生徒たちが、三々五々それぞれの席へと向かって行った。篠山は珍しく一人で教室に入って来た。
(倉田は休みなのだろうか)
僕がそう思っていると、ホームルームの少し前に四、五人の女子たちが入って来た。
その中に倉田由美子は居た。
肩口で切り揃えられた髪に、一文字に引き締められた唇。憂うような、伏し目がちな目。僕には急に大人になってしまったように見えて、遠く感じた。
昼休みになると、篠山は飛び出すように席を立った。
倉田は今朝一緒だったグループで、机を繋げていた。
「倉田、別れたらしいぞ」
「篠山は一年の誰だかに告って付き合ってるってよ」
友人は頼んでもいないのに情報を持ってきた。
うんざりする。
倉田が破局して僕にチャンスが巡ってくるわけではない。それなら悔しくても幸せでいて欲しい。
それが叶わないなら——
彼女の噂で自分たちの暇を埋めるのはやめてほしいし、まっぴらごめんだ。
気がつくと僕は、机を叩いて立ち上がっていた。
呆気にとられて僕を見る級友にハッとした。
「ちょっとトイレ」僕はそう言って誤魔化すと教室を出た。
結局僕は、誰の前でも良い奴でいたいだけの男だ。
天を仰いで目を瞑ると額を拳で叩いた。
「どうしたの、鈴木くん」
目を開けると倉田の顔があった。
「あっ、いや......反省会」
「あははは。なにそれ、ひとり反省会って」
今朝見た大人の倉田は、僕と同じクラスメイトに戻っていた。
僕が笑わせた——
彼女の笑顔を守れたような気がした。
彼女の髪の毛は、その時、生きた動物の毛のように——それでも、肩口で切り揃えられた髪の毛は、僕の方へなびくことなくはらりと落ちた。
ハッシュカットボブの遊ばせた毛先が、僕の頬を撫でた。
まるでそう、生きた動物のように。
袖口の猫がまとわりつくように、じゃれつくように。
やがて艶めかしく紅が引かれた唇が、囁くようにゆっくりと開かれると、耳元に熱い吐息が掛かった。
「噂——聞いてるでしょ」
倉田が聞いているのは、あの秋の日の噂のことではないのだろう。
狭い街。同級生の間で流れる噂話は、僕のような男の耳にも入ってくる。ゴッホのように耳を削げば僕も楽になれただろうか。
「篠山と......」僕は口にしたくもない男の名を、口の中で形にした。アイツのやたらと大きな声が聞こえた気がした。
「嘘でも信じたかったの」
篠山は高校時代の後輩と卒業後に結婚していた。
「私のこと、まだ好きだって」
デキ婚で、相手の父親に詰められたと聞いていた。
「色褪せた初恋が、嘘に煌めいちゃったのよね」
僕の手の甲に、熱い雫が落ちた。
「奥さんに気付かれたって」
僕は黙って十四年のオールドモルトを喉に流し込んだ。
「賭けたの。同窓会から一緒に抜け出そうって」
甘くフルーティーな香りが鼻から抜け、焼け付くような度数のアルコールが喉を焼いた。
「そして、僕を最後に誰も来なかった」
僕は彼女にそう言うと、ジャケットの内ポケットから栞を取り出した。
桜の花弁の押し花をあしらった栞だ。
「差し上げます」
僕にはもう必要のない——必要のなくなったものだ。
「いつかそれが要らなくなった日、前を向けますよ」
怪訝な表情の彼女にそう言うと、僕は席を立った。
店の外は雪で舗装されていた。
螺旋を描いて降る雪の中、踏みしめる足音が静かな街に響いた。
彼女は本当に僕の小説を読んだのだろうか。
さようなら、倉田由美子。
いつかその桜の栞を、僕の書いた初恋のどこかの頁に挟んでください。




