吉瀬依子
この三角兵舎に入ってすぐのことだった。
「吉瀬!お前、まだ済ませてないんだろ」
水上上飛曹が壱円札を握らせて「明日の休みに行ってこい」と僕の背中を叩いた。
「ありがとうございます。ですが自分は今度の休日は人と会おうと思っております」
「なんだ、隅に置けんな。じゃぁ小遣いだ、取っておけ」そう言って小指を立てると、豪快に笑って兵舎を出て行った。
「吉瀬、お前恋人がおったんか」
「抜け駆けしやがって」
戸が閉まった音を合図に、同房の隊員たちに揉みくちゃにされた。
「従姉妹じゃ、従姉妹。従姉妹の姉ちゃんが、近くの工場で働いとるんじゃ」
折り重なって押しつぶす連中の間から顔を出して叫ぶと「なんじゃ、従姉妹かい」「人騒がせなやっちゃな」などと言いながらひとりずつ離れていった。
折り重なる戦友たちが一気に離れ、自分の重ささえ消えたように感じた。
それは離陸する瞬間の浮遊感に似ていて気持ちが良かった。次にこれを感じるのは数日後。米艦隊に突っ込む日だ。——僕が死ぬ日だ。
皆にはああ言ったが、実は依子姉のことが僕は好きだった。
親戚の集まりで年に数回会う程度だった、依子姉の働く花岡地区がある鹿屋基地。何も知らされていなかった僕は、ここへの配属を幸運だと思っていた。
毎日のように、帰らない仲間を見送った。訓練中の事故で同期を失った日もあった。数刻前まで共に飯を食った戦友のベッドが空いて、翌日には新兵がそこで寝息を立てた。まるで悪い夢だ。
そして、ついに僕の番が来た。
三角兵舎への移動を命じられた。
これで悪夢から覚めることが出来ると、内心喜ぶ自分がいた。
どうせ夢なら最後に一度——
約束の時間より随分前に駅に着いた。
改札口を何度も行き来する僕の背に、声が掛けられた。
「兵隊さん、あんたさっきから何してるんだい?」
「いや、その......」
「まさか、脱走じゃないだろうね」
「違います。僕は——」
慌てて身振り手振りで事情を話すと、駅員は大笑いして僕を詰所に入れてくれた。
「そこの窓から乗客が見えるから、お茶でも飲んで待ってなさい」
駅員はそう言って、構内へ戻って行った。
頂いた番茶を飲むと人心地がついた。
朝——いや、昨夜からの心の強ばりが解けていくように感じた。
数本の貨物列車が通過して程なくのことだった。警笛に窓がビリビリと共振した。
やがてホームに黒鉄の威容がゆっくりと滑り込むと、真っ白な蒸気を吹き出して止まった。
ホームに降り立った乗客たちの中に、見知った、待ちかねた人の姿を見た。
依子姉——
モンペや国民服の群れの中に、真っ白なワンピースが夏の風に踊った。
僕は詰所を飛び出すと、改札口で彼女を待った。
僕に気付いた駅員は、依子姉を見た後に僕の方を見て片目を瞑って見せた。
僕は小さく頭を下げると、依子姉に大きく手を振った。
「ウリ坊!」
依子姉はそう言うと、改札を駆け抜けてて来た。
「おっきくなったねぇ、ウリ坊」
「もうウリ坊はやめてくれよ」
背伸びして僕の頭を撫でる依子姉の手を掴んだ。
細く柔らかな指先は随分と荒れていた。
「工場で薬品を使うから」
依子姉は右手を隠すように、同じく荒れた左手を重ねた。
「佑理は立派な軍人さんになったねぇ」視線が七つ釦を辿るように下から胸元へ、そして僕の目を見て止まった。心臓の音が大きくひとつ鳴って、トクントクンと早鐘を突くように、僕の全身に形容しがたい感情が流れた。
「依子姉、アイスクリームを食べよう」僕は予定していた順番があったのに、ひとり焦ってしまった。本当は綺麗な景色を見て、街を散歩して——
唐突にアイスクリーム。失敗した
「アイスクリーム!何年ぶりかしら?楽しみね、行きましょう」
依子姉は僕の失敗なんて知る由もなく、嬉しそうに微笑むと僕の横に並んで歩き始めた。
「そっか、ウリ......佑理は飛行機乗りになったのね。訓練は厳しい?」
「飛行機よりも上巻の鉄拳が飛んでるよ」僕が笑って返すと「大丈夫なの?怪我してないの?」と本気で心配されてしまった。
「ここだよ」僕は行きつけの、鹿屋食堂の扉を開いて依子姉を招き入れた。
「おう吉瀬。エラいべっぴんさん連れて——例の従姉妹さんか!?」
鹿屋食堂は僕だけの行きつけではなく、隊員行きつけの店だ。依子姉の周りに戦友や先輩たちが集まって来た。
ガヤガヤと騒々しくなったところで、ガンガンとけたたましい音が店内に響いた。振り向くと店主のタマ子さんが、仁王立ちで鍋をおたまで叩き鳴らしていた。
「アンタたち、それじゃ入って来れないだろ!依子さんだね、吉瀬くんから聞いてるよ。座敷があるから上がりなさい」タマ子さんはそう言って奥を指差すと「アンタたちは邪魔すんじゃないよ」と隊員たちに釘を刺してくれた。
タマ子さんは麦茶をテーブルに置くと「ごめんね、まだ準備が出来てなくてもう少し待っててね」と済まなそうに言った。
「いや、いいんだ。予定より早く来ちゃったから」ゴモゴモと僕が言うと「じゃ、先に親子丼食べちゃうかい?」と言って厨房へと戻って行った。
「親子丼なんて食べられるの?」依子姉が声を潜ませて、でも弾ませて僕に聞いてきた。
「事前にお願いしておくと、大抵作ってもらえるんだ」
「軍人さんってすごいのねぇ。次は男に生まれて軍人さんになろうかしら」
そう言って口元に手を当てる依子姉を、窓から差し込む光が淡く照らしていた。
「甘くて美味しいわ」
依子姉は、こめかみを指先で揉みながらその手を止めず、アイスクリームを口に運んだ。
「そんなに焦らなくても、アイスクリームは逃げないよ」
僕はそういいながら、自分のアイスクリームを依子姉の前に置いた。
「もう何年も、こんなに甘いものは食べていないんだもの」
今度は頬に手を当てて目を細めていた。
「もう少しで、いつでも食べられるようになるよ」
僕の言葉に依子姉は一瞬、目を大きく見開いてから細めると「佑理がアメリカをやっつけてくれるんだものね」と笑った。
「親子丼もアイスクリームもとても美味しかったです。これからも佑理をお願いします」
店を出る前に、依子姉はタマ子さんに深く頭を下げた。
タマ子さんは「御国の為に尽くす軍人さんに尽くすのは、国民の責務でございます」と、より深く頭を下げた。
「依子さん、我々もご相伴にあずかりました。ご馳走様でした」
先輩の号令で店に居た全員が起立すると、アイスクリームの器を掲げて「ご馳走様でした!」と唱和した。
何をちゃっかり依子姉の名前を呼んでいるんだと眉根を寄せたが、小遣いをくれた水上上飛曹だったので、許すことにした。
慣れ親しんだ鹿屋食堂のおかげで、今日の計画を立て直した僕は、依子姉を促すと外へ出た。
外へ出てすぐ、僕らは——いや、依子姉は恫喝するような声に呼び止められた。
振り向くとそれは警官だった。警官は依子姉を睨みつけると「女!なんだその格好は!」と力の限り怒鳴りつけて来た。僕は依子姉の前に出ると「私の連れです」と警官を睨み返した。
「そんな事は分かっている。貴様のような女うつつを抜かした腑抜けが七つ釦なんぞを着とるから——」腰のサーベルに手を掛けたところで言葉が止まった。
「我々が腑抜けだと?」
水上上飛曹が、サーベルを握る警官の手首を掴んでいた。その後ろには騒ぎを聞きつけた仲間たちがズラリと並んでいた。
「あ、あ、あ......」
言葉を忘れたように繰り返す警官に「お巡りさんは何か誤解なさっているようだ。ふたりはこれから写真館に向かうのです。この意味は分かりますね」と水上上飛曹は柔和に微笑んだ。
——その目以外は。
「そ、そうか。記念写真なら仕方あるまい。行って構わんぞ」
面子を保たれた警官は、そう言うとその場から去って行った。
全員が肩を震わせて堪えていたが、警官の姿が消えたのを合図に一斉に笑いだした。
「さ、貴様らも写真館に行ってこい。朝桐写真館なら現像も早いぞ」
水上上飛曹は僕たちの肩を両手で掴むと、ずんずん押して突き放した。
そして「依子さん、吉瀬を頼みます」と手を振った。
依子姉は会釈をすると口の端を上げて「面白い人ね」と笑った。
朝桐写真館のショーウィンドウには家族写真や婚礼写真等が飾られていた。
笑顔のものもあれば、緊張しているもの様々な表情があった。
真鍮の細長い取っ手を押して写真館の扉を開けると「いらっしゃいませ」と奥の方から店主が歩いて来た。
僕たちの姿を見た店主は、深々と頭を下げるとスタヂオへ通した。
三脚の上に、大きなカメラが暗幕を被せて置いてあった。他にも幾つものカメラが並べられている。
「じゃぁ奥さんはこの椅子にかけてもらって、旦那さんは——」
僕は特に否定しなかった。依子姉は頬を赤らめて俯いていた。
僕は店主の言う通りに、依子姉の肩に手を掛けて隣に立った。
細かい立ち位置や襟元の直しが終わると、店主が指を折って数を数えた。
「三、二、一、ハイ!」
眩しいストロボが炊かれた。
真っ白な景色が徐々に色を取り戻していく。
色付いた世界でも尚、白く透き通るうなじと、浅黒い僕の左手。僕の左手は僕以上に名残惜しげに、依子姉の右肩から離れていった。
「お疲れ様でした」店主は恭しく頭を下げると「夕刻には仕上がりますので、基地の方へお持ち致します」と言って僕らを見送った。
僕たちは結局そのまま別れた。
駅のホームで「それじゃぁ、また」と手を振った。
依子姉も列車乗り込んでからも、窓を開けて手を振ってくれた。
見えなくなるまでずっと手を——
千切れんばかりに帽子を持つ手を振ってくれる仲間たちに右手を挙げた。
目の前のプロペラは勢いを増して回り、僕の零戦は地面に別れを告げた。
八月十四日。
願わくばこの一戦をもって、長い戦争に終止符を打たんことを願う。
僕は、懐から写真を取り出した。
先に逝った戦友たちは勇猛果敢に飛び立って行った。
「靖国で会おう」そう笑って彼方へ消えて行った。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
死ぬことが怖くない人間など居るものか。
でもそれ以上に依子姉に会えなくなるのが怖くてたまらない。
怖い怖い怖い怖い。僕は怖くてたまらない。
僕はもう一度、写真を見た。
はにかむようにカメラを見つめる依子姉。
深く大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出した。
この人の未来が消えてしまうことが何より怖い。
「アイスクリーム、きっともうすぐ食べられるよ」
僕は操縦桿をしっかりと握った。




