工藤留美子
マイルス・デイヴィスの沈黙を、レコードのノイズが心地好く埋めていった。
グラスの中のオールドモルトが、琥珀色に染まる氷を崩した。
カラン。
それを合図にトランペットが泣くように音を奏でた。
——ただ、なんとなく憂鬱。
夕べの衣擦れと汗ばんだセッションは、心の沈黙を埋めることはなかった。
マイルスのジャズはは引き算の美学だ。空白は余韻が埋めてくれる。
私の人生は、引いてはいけないものを引き換えにして手に入れた。それは余韻ではなく空洞。何ものも埋めることは出来ないことに気づいた時には、もう既に遅すぎていた。
想い出を反芻するように辿れば、いつも同じ光景で立ち止まる。
それは私が立ち止まることのなかった場所だ。
「さよならだね」
工藤留美子はそう呟きながら、絡めた指をほどかずにいた。
春にはまだ遠い北の外れの駅のホーム。学生時代には一度も化粧をしなかった彼女の唇には、艶やかな紅が引かれていた。少し腫れた耳元を飾るピアスは小さな18金。
「間に合わなかった」
留美子はそう言って耳にかかる髪をかきあげて、耳たぶにそっと指を這わせた。
「東京で、留美子に似合うのを探すよ」
「ありがとう」
交わした最後の約束。
粉雪混じりの風が二人の間を吹き抜けた時、強く手を引いた留美子が言った言葉は、ホームに滑り込んだマイナー・サードの汽笛に掻き消された。
あれは彼女にとって、一瞬のブルーノートだったのかもしれない。
都会では小さな成功と挫折、アルコールの苦味を覚えた。
交わした約束は、吐き出す煙草の煙のように徐々に消えていった。
煌びやかな街での暮らしに、ここで生まれ育ったような錯覚を抱いた頃——
「じゃぁ、今度シーシャバーにでも行こうか」
二本の指で挟んだ煙草の灰を落としながら、十分前に出会った女にそう話していた。
不意に鳴ったスマートフォンの通知。
蒼い光が薄暗いバーのカウンターを照らした。
「他に口説いてる女かしら?それとも先約?」
女は妖艶な笑みを浮かべながら、からかうように言うと、その唇よりも赤いマンハッタンカクテルを私のグラスに当てた。
「仕事じゃないかな。女ならLINEの方だ」そう言って笑い返してスマートフォンを手にした。
未登録の、だが既視感のあるメールアドレスだった。
そこには短く『留美子が死にました』とだけ書かれていた。
「顔を、見てあげてください」
目を閉じた留美子は、薄く化粧を施されていた。長い闘病でやつれた頬を隠すように整えられた髪が、誰かの入れた花にかきあげられた。
露わになった耳には、18金のあの日のピアスが飾られていた。
想い出を幾度辿っても、守ることのなかった約束の日。
マイルスは私の余白を埋めることなく、今夜も染み入るように流れて行った。




