紅葉とクレア
新車のカタログを見ていた日曜日。
部屋の隅でスマホの着信ベルが鳴った。
『浩司。クレア、とうとう居なくなっちゃった』彼女はそう言ってか細く泣いた。
もう既に、飼い犬のクレアが死んで三年が過ぎていた。
幼なじみの結城紅葉の家に仔犬がやって来たのは、僕たちが五歳の秋だった。
誕生日、ケージから出された仔犬を見て彼女は歓声をあげた。仔犬は身体に不釣り合いな大きなリボンを付けて、ヨチヨチと僕の元へ来てしまった。
大人たちは大笑いして、紅葉は大泣きしたのをよく覚えている。
紅葉は仔犬をクレアと名付けた。
僕たちはよく一緒に遊んだ。
僕はクレアが大好きで、紅葉へはそれ以上の気持ちを、いつしか抱えるようになった。
高一の夏。
ケンカして三日間会わなかった日、クレアはリードを力いっぱい引いて紅葉を隣の僕の家まで連れて来た。
その頃のクレアはもう老犬で、どこにそんな力があったのだろうか。
勢いで告白——する勇気がなかった僕はクレアがくれたチャンスをみすみす逃してしまった。
あの時のクレアの目は、しっかりと呆れた視線を僕に向けていた。
「だって仕方ないだろ」
僕は紅葉が見ていないところでそう言うと、クレアの好物のジャーキーを献上した。
免許を取って紅葉とドライブするようになっても、僕らの関係は幼なじみのままだった。
「クレア、寝ている時間が長くなったの」
僕たちの話題の五割はクレアの話だ。
「毛に艶が無くなって来たよな」
「ブラッシングしてあげると、うっとりした目をするのは小さな頃のままなんだけどね」
「尻尾をさ、パタン、パタンって床に打つんだよな」
緩いカーブに、クレアの尻尾が描く弧が重なった。
「可愛いでしょ」
不意に彼女のスマホが鳴った。
「ママだ」
LINEではない通話の呼び出し画面が、紅葉の顔を蒼く照らした。
「もしもし、どうしたの?」
大きく目を開いて、紅葉は一瞬呼吸を止めた。
「——クレアが」
「戻ろう」
僕は紅葉が口を開くと同時に車を寄せて、Uターンのタイミングをうかがった。
玄関前に停めた車から勢いよく飛び出すと、おばさんが開けたドアから駆け込んだ。靴を脱ぐのももどかしげに、玄関から「クレア!クレア!」と紅葉は叫んだ。脱ぎ散らかした靴の横を抜けて、僕も挨拶もそこそこに家に上がった。
クレアは紅葉の姿を見ると、頭を上げようと首を向けた。だが、向けるのが精一杯でそのまま力なく鼻を鳴らした。
「クレア、いいから。姉ちゃんが行くから」紅葉はそう言うとクレアの隣に身体を寄せて、そっと頭を撫でた。
クレアは四肢を大きく伸ばすと、最期の呼吸を終えて静かに眠った。
クレアの目尻に滲んだ涙は、紅葉の大粒の涙に重なって、白髪混じりの茶色い毛を濡らした。
『もう、どの服にもベッドカバーにもクレアの毛が付かなくなっちゃった』
鼻をすする音が聞こえた。
僕はカタログをゴミ箱に捨てると、久しぶりに彼女をドライブに誘った。
クレアがくれたラストチャンス。
助手席には、紅葉の服に付いて来たクレアがまだ乗っていた。




