アルスⅣ
あの日から、私はテラス以外には出なかった。
カンバスに向かい、描いてはターペンタインで全てを消した。そして素描からの描き直し。
いつも何かが足りなかった。
食欲も振るわず、何も描けない日々が続いた。
エメラルドグリーンの湖面が灰色を宿し、夢と現実の境すら曖昧の中で私は一面の麦畑にいた。目の前には銃口を頭に押し当てる男が私を見下ろしていた。
ああ、彼はゴッホなのだろう。気付くと男の姿は無く、まだ銃身が熱を持つ拳銃が私の足元にあった。その拳銃を拾い上げ——
ある日、あの雲海の朝のように早くに目が覚めた。期待して開けたカーテンの向こうには、薄い霞が掛かるだけだった。
「おはようございます、坊っちゃま」
「おはよう」
廊下をすれ違う女中たちが、異口同音にすれ違った。
テラスに出ると、いつもより冷たい空気が肌に触れた。
静謐な世界で、凛とした空気を肺いっぱいに吸い込んだ。森の香りが肺胞のひとつひとつを満たしていった。
動物たちはこの空気に感動するだろうか。この景色を描こうとするだろうか。
この世界に絶望するだろうか——
「冷えますよ、坊っちゃま」
石岡が肩掛けとホットミルクを運んで来た。
甘いホットミルクはその熱と栄養を私の隅々まで運び、生命へと変わっていくように感じた。
朝靄の湖畔を歩いた。
久しぶりの外だ。土の感覚が妙に懐かしい。対岸に木々の間を歩く人影が見えた。これがキネマならラヴェルのパヴァーヌが似合いそうだ。そう思った自分に、何故だか笑みがこぼれた。
「やぁ、アルス」
私から声を掛けるのは初めてだった。
「おはよう、國重」
私たちは湖畔を木々の間を、小径を歩き他愛の無い話をした。
アルスの形の良い唇が動く度に鳥がさえずり、銀細工のような髪が揺れる度に木々の葉ずれが響いた。
「人間はそうして悩み、感動して老いていく」不意に私がそう言うと、アルスは足を止めた。そして私の顔を覗き込むように前屈みになると、エメラルドグリーンの湖面と翠玉の瞳の両方が目の前にあった。
「それでいいと思うんだ。それを次の世代に受け渡して、少しずつ変化していくのが"僕たち"なんだと思う」
アルスは何も言わなかった。
大きく見開いた瞳に私を映したあと、そのまま閉じ込めるように目を細めて去って行った。
頬に温かく柔らかい感覚を残して。
アルスが居た場所には陽だまりだけがあった。
「あの湖畔の陽だまりは、そう言う意味だったのですね」幸子さんは湖の、私が陽だまりを描いた辺りを見て「素敵な初恋でしたね」と目を細めた。
遠くで息子のレミントンの銃声が聞こえた。




