アルスⅢ
テラスに置いたカンバスに、木炭で下絵を描いていた。時折、森の奥からレミントンの銃声が響いた。私は頭にアルスの言葉を反芻した。でもやはり、あのレミントンは父が持っている限りは安全なものだ。では、父以外が手にしたらどうだろうか。今、大陸では我が国の兵士が敵と戦っている。その敵兵が手にしたら?
—— カタン。
カンバスに弾かれるように、木炭が指の間から落ちた。
拾い上げる背中の遠くで、銃声が響いた。背筋を冷気が撫でた。
「お坊ちゃま、気分転換に湖で釣りなどは如何でしょうか?」
私の様子に行き詰まっていると感じたのだろう。
「今夜は旦那様が仕留められた鴨料理です。ここは山女魚や岩魚などが釣れます。花を添えられるのは如何でしょうか」
「そうだね。その前にラムネを貰えるかな」
妙に喉が渇いてしまった。
急ぎ、石岡が運んで来たラムネに口をつけた。ビー玉に溢れる細かな泡と共に、清涼な刺激が喉の奥で弾けた。
湖畔に降りると、ビーチパラソルの影の中に、竿と椅子が置かれていた。
天蚕糸と絹糸が巻かれた釣車があった。どうやら流行りのフライフィッシングも出来るらしい。あの美しい毛鉤にも興味があった。
(岩魚はあの辺りだろうか)
河川が流入する辺りを狙って、毛鉤を飛ばした。竹のしなりを活かすコツを覚えると、遠くまで飛ぶようになった。そうして何度目かのキャストで、竿先が強く引かれ大きくしなった。高く跳ねた魚体に斑点が見えた。釣車を巻く指先に、支える左腕に生命を感じた。水中で躍動する筋肉の動きが伝わってきた。(楽しい!)そう思った瞬間だった。
ふっと、抵抗が弱まった。岩魚の体力が尽きた。私は釣車を巻き取り魚体を砂浜に引き揚げると毛鉤を外した。六寸、いや、七寸はあるだろうか。両腕に確かな重みを感じた。山女魚合わせて昼過ぎまでに五匹を釣り上げた。釣果に満足して片付けを始めた頃にアルスが来た。
「アルス、五匹も釣ったよ」釣果を誇り、網を持ち上げて見せた。
「そう」浮かない表情に見えた。
「もしかするとアルスはこれも嫌だ、怖いというのかい?」私はふと昨日の銃声を思い出した。
「ううん」アルスは目を伏せ首を振ると「國重は楽しんでいたでしょ」と言った。
「ああ、楽しかったよ。こう、毛鉤に喰いついた瞬間の引きが最高なんだ」
「人はそうして本能以外で命を奪うの。その先に食べるという根源的な行為があったとしても、楽しみが先なの」
冷水を浴びせられた気がした。
「飢えを忘れたからかしら」アルスはそう続けると、湖水に足を入れた。
足首まで浸かると湖をゆっくりと見回した。
「生まれてしまえば、奪わずにはいきられないものね。人も虫も動物も、草木でさえも」
「だから私たちは食前に祈りを捧げるんじゃないか。私たちと西洋では感謝の先は違っても、人間はそうしてきた。そして日本人は食後にも感謝を捧げる」
「そうかもしれないわね。動物は祈りを捧げない。食欲と本能を満たすだけ」
「ならばやはり、人間の方が遥かに高尚ではないか」私は自分の言葉に頷いた。
「動物には、自分が糧になる無自覚の覚悟があるわ。人間はいつも安全な場所にいるのよ。だから楽しいの」
鴨も岩魚も、米すらも味がしない夕餉だった。昼間のアルスの言葉が耳から離れず、「いただきます」も「ごちそうさま」も空虚な言い訳に聞こえた。
飢えを忘れた——
彼女の呟くようなあの言葉は......
寝台の上で天窓の月を見上げた私は、いつの間にか眠りに落ちていた。




