アルスⅡ
「お父さん、この近隣にはどなたか住んでいるのですか?」
ソファーに座りレミントンの手入れをしている父に尋ねた。その傍らの床にはイングリッシセターが伏せて休んでいた。
「近隣の街なら途中に通った村が半里くらいの距離にあるな。他の別荘なら一番近いのが洪牙利駐日公使のカーロリ氏の別荘だな」
そこで私はひとり得心すると、父に「おやすみなさい」と挨拶をして自室に戻った。
なるほど、あの娘は公使の御令嬢だったのだ。約束は交わさなかったが、明日は会えるだろうか。
いつもと違う環境で気持ちが昂っているのだろうか。随分早く目覚めてしまった。
細く開けたカーテンの隙間から外を覗くと、窓の下に雲があった。以前に池田子爵のご厚意で気球に同乗させて頂く機会があった。雲を下に見るなど、それ以来のことだった。あの時は晴天で、霞のような雲だった。今見ている雲は、まるで雪を敷き詰めたような雲だ。そのまま湖の対岸の森まで歩けそうだと思った。
私は部屋を飛び出すと身支度もそこそこに、テラスへと廊下を駆けた。
途中、数人の使用人とすれ違い驚かせてしまったが、私自身も使用人たちがこんなにも早くから仕事をしていることに内心驚いていた。
二階のテラスへの窓を開けて飛び出すと、思わず感嘆の声を上げた。
「今朝は急激に気温があがりましたから」振り返ると執事の石岡が「おはようございます、お坊ちゃま」と頭を下げた。
雲の海はその端を徐々に薄く伸ばしながら、幾条もの蛇の群れのように川の流れのように、うねるように、波打つように這うと霧散していった。
私はガーデンチェアに腰を降ろすと、暫し見蕩れるように無言でそれを見詰めていた。
「失礼します」女中が珈琲をテーブルに置いた。そして珈琲の横に生クリームの乗った器を添えると「こちらを珈琲の上に乗せて召し上がって下さい」と言うと恭しくお辞儀をして下がって行った。
匙でひと掬いしてカップと景色を見比べた。なるほど、これは粋な計らいだ。カップの中に雲海があった。石岡の仕業だろう。
やがて生クリームが珈琲の熱で溶けだす頃、湖上の雲も姿を見せた太陽に溶けていった。
あれは——
消えかかる雲の向こうに霞んで、人影が見えた。それはやがて輪郭を伴い、色彩を持ち始めた。
揺れる銀細工のような髪。
ノースリーブに露になる、透き通るような肌。
広げた手のひらの、しなやかに伸びる指先に一羽の鳥が羽根を休めた。
あの長い尾は三光鳥だろうか。嘴と目の周りの輪環の紺碧が美しく印象的だった。
私は視線を逸らすことが出来ずにいた。瞬きすら惜しい、その一瞬で消えてしまうのではと思った。
不意にアルスの顔がこちらに向けられた。
目が合ったような気がして、つい狼狽してしまった。到底そのような距離ではなかったが、あの翠玉のような瞳を、私は思い浮かべていた。
アルスは三光鳥を空へ放つと、その羽ばたきを見送った。
そして昨日の小径を戻って行った。
あとには粒子に乱反射する木漏れ日だけが残っていた。




