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初恋  作者: 浅見カフカ


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16/22

アルス Ⅰ

湖上に煙る朝靄あさもやを眺めながら、静謐せいひつな時間を過ごすのが私のお気に入りだった。

森の香りを孕んだ冷たい空気を、肺胞の隅々まで吸い込むと、あの澱んだ都会の空気から逃れられたのだと安堵したものだった。

あの頃のように息を吸い込んでみた。

胸が三分の一すら膨らむ前に、咳が止まらなくなってしまった。

「お義父さん、冷たい空気は障りますわ」リビングとテラスを隔てる窓を勢いよく開けた幸子さちこさんが、駆け寄って来た。そして自らのショールを私の肩に掛けると隣に佇み、深呼吸をした。

「これは吸い込みたくなる空気ですね」

「つい、昔のつもりになってしまった」幸子さんから視線を外して、再び湖を見遣った。

「画廊の絵、そのままですね。ああ、でもやっぱり木々は少し高くなりましたか」

ゆっくりと首を回して景色を睥睨へいげいした。

「お義父さん、あの絵の題名が初恋なのはどのような理由からなのですか」

幸子さんは再び私に視線を戻すと、僅かに首を傾けた。


——半世紀も前の作品だ。


父が購入した、この別荘で過ごした初めての夏。

私はこの景色と、一人の少女に出会った。

先に降りた運転手がコーチドアを開けた。

「ありがとう」

そう言って降りた私は、出迎えた執事に画材をテラスに運ぶよう指示をした。

二階のテラスからの眺望が良いと、父に聞いていた。

「お父さん、湖畔を散策してきて良いですか?」

最後に車から降りた父に尋ねると「ああ、行ってきなさい。ただし、これから私は猟に入るから森はいけないよ」と、大きな手で私の頭を撫でた。

エメラルドグリーンの湖水が、白砂にさざ波を寄せていた。南越ベトナムの美しいビーチの砂を取り寄せたと、車中で父が言っていた。手に掬うとまるで水のようにさらさらとこぼれて、その様がまるで白滝のように見えた。

「綺麗ね」

不意に掛けられた声に顔を上げると、透き通るような肌の少女が、翠玉すいぎょくのような瞳に私を映して佇んでいた。

歳の頃は、私と同じくらいの十五歳前後だろうか。微かな風になびく銀細工のような髪が、午後の陽射しに煌めいていた。

北欧の神々の使いか、或いは神そのものか。このように美しい人を、私は見たことがなかった。

「誰も見たことのない砂。皆、驚いていたわ」

皆?——地元の人たちのことだろうか。

「でも、綺麗だって。私もそう思ったわ」

そう言って涼やかに笑うと私の方へ、誘うように手を差し出した。

私も惹かれるように右手を差し出そうとした瞬間、パンという銃声と鳥たちが羽ばたく音がこだました。

彼女は右手をすっとおろすと俯いて「嫌な音。酷く怖いわ」と言った。 「大丈夫。父のレミントンだ」

父は猟に出ると言っていたし、何より父の愛銃の、レミントンの銃声は聞き馴染んでいた。猟犬達の吠える声も聞こえてきた。

「貴方のお父様の?」

「ああ、だから怖くないよ」

「どうして?」

「いや、だって......」

言葉に詰まった。父が僕たちに銃口を向ける訳がない。ただ、彼女はそんなことを聞きたい訳じゃないと思った。

「貴方はきっと誠実な人ね」

戸惑いと迷いを、その翠玉に見透かすように言うと「お名前は?」と微笑んだ。

鈴宮八郎國重すずみやはちろうくにしげ。君の名前は?」

「私?」彼女は口元に指を当てて顎を引いた。そして「——そうね。アルスと呼んで」そう言って踵を返すと、湖畔の森の小径こみちへ去って行った。



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