アルス Ⅰ
湖上に煙る朝靄を眺めながら、静謐な時間を過ごすのが私のお気に入りだった。
森の香りを孕んだ冷たい空気を、肺胞の隅々まで吸い込むと、あの澱んだ都会の空気から逃れられたのだと安堵したものだった。
あの頃のように息を吸い込んでみた。
胸が三分の一すら膨らむ前に、咳が止まらなくなってしまった。
「お義父さん、冷たい空気は障りますわ」リビングとテラスを隔てる窓を勢いよく開けた幸子さんが、駆け寄って来た。そして自らのショールを私の肩に掛けると隣に佇み、深呼吸をした。
「これは吸い込みたくなる空気ですね」
「つい、昔のつもりになってしまった」幸子さんから視線を外して、再び湖を見遣った。
「画廊の絵、そのままですね。ああ、でもやっぱり木々は少し高くなりましたか」
ゆっくりと首を回して景色を睥睨した。
「お義父さん、あの絵の題名が初恋なのはどのような理由からなのですか」
幸子さんは再び私に視線を戻すと、僅かに首を傾けた。
——半世紀も前の作品だ。
父が購入した、この別荘で過ごした初めての夏。
私はこの景色と、一人の少女に出会った。
先に降りた運転手がコーチドアを開けた。
「ありがとう」
そう言って降りた私は、出迎えた執事に画材をテラスに運ぶよう指示をした。
二階のテラスからの眺望が良いと、父に聞いていた。
「お父さん、湖畔を散策してきて良いですか?」
最後に車から降りた父に尋ねると「ああ、行ってきなさい。ただし、これから私は猟に入るから森はいけないよ」と、大きな手で私の頭を撫でた。
エメラルドグリーンの湖水が、白砂にさざ波を寄せていた。南越の美しいビーチの砂を取り寄せたと、車中で父が言っていた。手に掬うとまるで水のようにさらさらとこぼれて、その様がまるで白滝のように見えた。
「綺麗ね」
不意に掛けられた声に顔を上げると、透き通るような肌の少女が、翠玉のような瞳に私を映して佇んでいた。
歳の頃は、私と同じくらいの十五歳前後だろうか。微かな風になびく銀細工のような髪が、午後の陽射しに煌めいていた。
北欧の神々の使いか、或いは神そのものか。このように美しい人を、私は見たことがなかった。
「誰も見たことのない砂。皆、驚いていたわ」
皆?——地元の人たちのことだろうか。
「でも、綺麗だって。私もそう思ったわ」
そう言って涼やかに笑うと私の方へ、誘うように手を差し出した。
私も惹かれるように右手を差し出そうとした瞬間、パンという銃声と鳥たちが羽ばたく音がこだました。
彼女は右手をすっとおろすと俯いて「嫌な音。酷く怖いわ」と言った。 「大丈夫。父のレミントンだ」
父は猟に出ると言っていたし、何より父の愛銃の、レミントンの銃声は聞き馴染んでいた。猟犬達の吠える声も聞こえてきた。
「貴方のお父様の?」
「ああ、だから怖くないよ」
「どうして?」
「いや、だって......」
言葉に詰まった。父が僕たちに銃口を向ける訳がない。ただ、彼女はそんなことを聞きたい訳じゃないと思った。
「貴方はきっと誠実な人ね」
戸惑いと迷いを、その翠玉に見透かすように言うと「お名前は?」と微笑んだ。
「鈴宮八郎國重。君の名前は?」
「私?」彼女は口元に指を当てて顎を引いた。そして「——そうね。アルスと呼んで」そう言って踵を返すと、湖畔の森の小径へ去って行った。




