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初恋  作者: 浅見カフカ


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13/22

鼓々③

千早さんから聞いた話。

中学二年の夏休みだった。

その日は商店街のシャッター全てに、絵を描く依頼を受けていたんだ。

正直な話、それまでのはいわゆる落書きと呼ばれる違法な活動ばかりだった。

だからまさかこうして堂々と描ける日が来るなんて、夢にも思わなかったんだ。

リーダーが陰で奔走して、俺たちを陽のあたる場所に連れ出そうとしてくれていたんだ。

シャッター絵画は数日間に渡る仕事だった。

そんなある日、リヤカーのホームレスがじっと俺の絵を見ていたんだ。

それがスギさんだった。

毎日来ては俺の絵を見続けるってのが続いて、こっちから声を掛けたんだ。

「毎日どうしたんだ?ペイントの空き缶が欲しいのか?」って。

そうしたらスギさんは何度も言葉をつっかえさせながら、俺に絵を描いて欲しいって言ったんだ。

リーダーと一緒について行ったら橋の下だ。

このコンクリートの橋脚に描いて欲しいって。

リーダーも最初は「違法な落書きはもうしない」って断ったんだけど、スギさんも譲らなかった。

とうとう根負けして「どんな絵?」そう聞くと「まだ」って。

話にならない。

そう思った俺たちだった。

でも、スギさんが不器用に朴訥ぼくとつに話してくれた『理由』を持ち帰ってメンバーに相談すると全員が描くことを賛成したんだ。

あれから随分経った。

代が替わって、当時の話を知らないメンバーも増えた。


千早さんはそこまで話すと、グラフィティに手を触れた。

「今夜、スギさんとの約束を果たすのに、打ち合わせに来たんだ」

「じゃぁ、描く絵は決まったんですか?」

「描く絵は決まっていたんだ、描くタイミングが『まだ』だったんだ」

千早さんはそう言うと「スギさん、この子たちに聞かせてあげてくれないか」と促した。

スギさんはあまり自由にならない身体で、ゆっくりと私たちの前に進むと身振り手振りを交えながら、つっかえつっかえ話してくれた。

「お、お、お、おれは、あ、あ、頭のぐあいがよ、よ、良くないから、いいいいい仕事も、も、も、もらえなくて——」


これはスギさんに聞いた話。

スギさんは、若い頃から色々な街で仕事をしてきた。

軽度の障害で上手に話すことが苦手だったスギさんは、力仕事で生計を立てていた。暖かい時期は北の地方で、寒くなれば南で仕事を求めた。

社会が進んでいくうちに、スギさんのように住所を持たない人たちは、徐々に雇われないようになってしまった。

移動する旅費の捻出が困難になったスギさんは、この街に留まるしかなくなってしまった。

それでも食べて行くには働かなくてはいけない。スギさんは日雇い仲間たちとリヤカーで廃品を拾ってはそれを引き取ってもらう仕事を始めるようになった。

一日中歩いて二千円も稼げれば大入りの日。木賃宿すら贅沢で、住む場所は駅や公園、橋の下が当たり前となっていった。

ある日の夕暮れ。

棒のようになった足を引きずりながら我が家に向かうと、素敵な歌声が聞こえてきた。

それは橋が近づく程に大きくなって、ついには我が家たる橋の下で歌う女性を見つけてしまった。

スギさんはリヤカーを引いたまま、その場に立ち尽くしてしまった。

そのま無言でぼーっと女性を見詰めていた。

疲れていたし、女性と話した経験もなかったし、何よりもこの歌声をいつまでも聴いていたいとスギさんは望んでしまった。

言葉の意味はさっぱり分からなかった。

きっと、英語という言葉なのだろう。

それでも一日を歩いて歩いて、歩き通したたスギさんを癒すに十分だった。

目を閉じで聴き入っていた歌声が途切れ、スギさんは暗闇にひとりぼっちになってしまった。

驚いて目を開けると、同じように驚いた表情でこちらを見る女性が居た。

「ごっ、ごめんなさい。あなたのおうちだったのね」

女性が慌てて立ち去ろうとするのを、スギさんも慌てて止めた。

「は、は、は、は、は、は」感情が昂ったり慌てたりすると、いつも以上に言葉が出なかった。

そんなスギさんの様子に女性は足を止めた。きっと、一生懸命話そうとするスギさんの言葉を待ったのだろう。

「大丈夫、落ち着いて」

優しい声だった。

いい匂いがした。

「はしの下はみんなのものです」ようやく搾り出した言葉に、女性は笑顔を見せた。

「そうね、みんなの物ね。ありがとう、また来るわ」そう言うと女性は小さく手を振った。

スギさんは、女性が見えなくなるまで大きく手を振った。

数日後。いつものように橋の下の我が家に戻ると、あの女性が居た。

女性は「お土産」と言って、缶に入ったチョコレートをくれた。最後に食べたのは、いつだっただろうか。まだ施設で暮らしていた頃だっ他かもしれない。

口に放ると甘くてほろ苦い味に、頭の奥が痺れた。

「私は鼓々《ここ》。この街のキャバレーでシンガーをしてるの」

彼女はそう言うと「あなたの名前は?」と首を右に傾けた。

そう言われれば昔はちゃんとした名前で呼ばれていたけど、もう忘れてしまった。スギさんって呼び名はそれに由来しているのだろうけど定かではない。

「お、お、おれ、スギさんってみんな、よ、よぶ」

「そう、スギさん。よろしくね」

鼓々さんはそう言ってクルっと回ると「歌ってもいい?」と聞いた。

スギさんは何度も頷くと「こここここ、歌うまい」と手を叩いた。

「ここはエコーが丁度いいの」

そう言って鼓々は、大きく息を吸い込んだ。

せせらぎがメロディのように彼女の歌声を乗せ、橋梁が音を響かせた。

それからのスギさんは、たまに訪れるこの日を心待ちにするようになった。

そして鼓々さんの歌声は、会う度に美しく洗練されていった。

そうして幾度か季節が巡り——別れが来た。

「スギさん。私ね、アメリカに渡るわ」

突然の言葉にスギさんは固まってしまった。アメリカは鼓々さんが歌う言葉の国で、とても遠いと知っていた。

「お店も年内で閉めるみたいだから、どうせなら挑戦しようと思って」

鼓々さんの言葉も遠くに聞こえた。

「ねぇ。いつか成功して、この街で歌うことが出来たら——」

鼓々さんはスギさんに背を向けた。

暮れかけた太陽が乱反射する川面に向かって、呟くように言った。

「またここで歌ってもいいかな」

スギさんは溢れる涙を止めることが出来ないまま、何度も頷いて「うんうん」と言った。

「ありがとう」

鼓々さんはそう言うと、取り出したハンカチでスギさんの涙を拭った。

そしてそのハンカチを渡すと「私のコンサートチケットよ」そう言って夕闇の向こうに去って行った。


「し、し、し、仕事中に、はり、張り紙み、み、見つけた」

「あのポスターね!」

ユミが声を上げた。

スギさんは大きく頷くと、嬉しそうに目を細めた。



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