鼓々②
「——って、パパには言われたんだけどね」
「まぁ、仕方ないよね」
堤防の土手に腰を下ろしてユミと二人、スギさんを見ていた。
「でも、いい顔してるよね」
私はスギさんの穏やかな表情を見ながら言った。汗や埃で汚れた顔に、深く刻まれた年輪のような皺。平坦ではない人生を歩んだだろうスギさんなのに、どうしてあんなに優しい目をしているんだろう。
「ニコ、さすがに見すぎ」
ユミが私のオペラグラスを取り上げるとわざとらしく「ジャズシンガー新城明日香凱旋コンサートだってさ」と、どこかに貼ってあるポスターを読んだ。
「ごめんね、つい」舌を出す私に「そんなことでは、名探偵の助手は務まりませんな」と、見えない口髭を指で整えた。
私たちが顔を見合せて大声で笑うと、スギさんの顔がこちらに向けられた。
「やばっ」私たちは適当に「宿題やらなきゃ」なんて言いながら立ち上がると駅に向かった。
「なんか大きなリヤカーがあったね」
「なんか雑誌とか、空き缶とか乗せて引いてるの見たよ」
ユミはスギさんが、重たそうに一歩一歩歩く姿を街中で見かけたそうだ。
早退してカラオケにく途中でと、いらない情報もセットで教えてくれた。
「落書きも酷かったねぇ」
「そうね、褒めちゃダメだけど無駄に上手いのもあったね」
「アレを描きに来る連中がいるわけでしょ」
「スギさん的にはやっぱり怖いよね」
私は缶スプレー片手に、深夜にやってくる若者たちを想像して身震いをした。
「あ」私は駅の壁に貼り出された広告の前で立ち止まった。
「これ?さっきユミが読んでたポスター」年配だけど、綺麗な女性がスタンドマイクの前で歌うポスターだった。
「ああ、それ。ここにも貼ってるんだね」
「いつから貼ってたんだろう?」
「うーん。街の景色に溶けちゃうと、気付かないよね」
「ああ、分かる。ほら、昨日更地になってたとこも、一昨日まで何があったか記憶に無いもの」そう言って、ふとスギさんを思った。昨日まではスギさんのことは街の景色の一部だった。
「新城明日香って知ってる?」
コップに水を汲みに行ったついでに、夕飯の支度をするママに聞いてみた。
「誰それ、有名人なの?」
「なんかジャズシンガーで、凱旋コンサートをするって」
「ああ、ポスターの人」包丁の手を止めたママがこちらを見た。そして「パート先の人が、昔一緒に働いていたって言ってたわね」と続けた。
「その人も歌手なの?」
「ううん。昔ね、この街には大きなキャバレーがあって、新城さんはそこで専属歌手をしてたって」
「キャバレー?キャバクラじゃなくて?」
「うーん、どうだろう。きっと違うんじゃないかな?パパに聞いてみたらいいわ。ついでに名刺のカレンちゃんは可愛かった?って」
トン!
大きな音がして、大根が不自然な位置で切られた。ママの顔は私の方を向いたまま貼り付けたような笑顔をたたえていた。
翌日、事件が起きた。
「ニコ、あれヤバくない?」
ユミの言葉を聞くまでもなく、明らかにスギさんが数人に絡まれていた。
「どこの高校だろう」私服姿ではさっぱり分からなかった。
「中学生よ、きっと。ガキみたいな顔だもの」オペラグラスを覗いたままのユミが答えた。そしてパチンと畳むと「行くよ!」と駆け出した。それは私も同時だった。
「ちょっと、アンタたち!」土手を降りてからの百メートルダッシュ。息も絶え絶えに言う私たちに何の迫力も無かった。
「あ?なんだよ」
「俺たち美化委員でーす」
「ゴミ掃除中なんで、どっか行ってくれます?」
五人居た。近くで見ると結構デカい。でも、やはり顔つきは幼かった。彼らは口々に言うと、何がおかしいのかキャハハと笑いがはじめた。
「お姉さんたち可愛いね。スギさんの代わりに遊んでくれるなら、掃除やめてもいいけどね」
「っざっけんじゃないわよ!」
橋脚の間にユミの怒声が響いた。同時に拳を軽く握って胸元で構えた。
「格闘技、やってたの?」小声で聞いた私に「弟と毎日格ゲーしてる」と言った。終わったと思った。目の端に見えるスギさんは、身を固くして小刻みに震えていた。
私は深く息を吸った。ユミとスギさんの手を掴んで、叫んで逃げる。いくら中学生とはいえ人数でも体格でも、私たちは負けている。
吸い込んだ空気を、大声にしようとお腹に力を入れた瞬間だった。
「何してるわけ、お前ら」
私たちの背後から新手が来た。
振り向くと、高校生と多分大学生だろうか。
とにかく完全に終わった。ユミも構えた両手を下ろして、戦意喪失していた。
「で、何してるわけ」
彼らは苛立ちを隠す素振りを見せずに、声に乗せた。
「えっ、わた——」
「クソガキが、スギさんに手ぇ出したら川に沈めんぞ!」怒号がコンクリートの橋脚や鉄製のトラスに反響した。リーダー風の男に一喝——いや、恫喝に中学生は蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。
「あんたらは聖光女子高校の?」彼は穏やかな口調で私たちに言った。射抜くような視線も、角の取れた眼差しに変わっていた。
「はい、そうです」
「聖女の聖女じゃん。スギさんを守ってくれたんだな。ありがとう」
そう言われた瞬間、膝から力が抜けた。ユミは肝が据わっているのか、振り向くことすらしないで仁王立ちしていた。
「ニコ」ユミが私の名前を呼んだ。
「身体が固まって動けない」ユミの言葉に、その場から大きな笑い声が上がった。
「DrownDrawの千早です、ニコさん」
千早さんはそう言って私に手を差し出して、立たせてくれた。
(ドラウンドロウ?)初めて聞いた気がしなかった。
「そちらのジャンヌ・ダルクは?」千早さんはそう言ってユミの方を見た。
「ユミです」
「ユミさん、本当にありがとう」そう言って、まだ固まっているユミの右手を両手で挟むように軽く握った。
ようやく落ち着いた私は、彼の言ったチーム名っぽいものの既視感に気付いた。橋脚にしっかりとDrownDrawとペイントされていた。
(ああ、なんだかんだ言って治安悪化の一因の人たちだ)
少し嫌悪感を抱いた私は、ユミの手を取って距離を取った。
「助けてくれて、ありがとうございました」失礼しますと言いかけたところで、耳慣れない音が聞こえた。それは口の中に何かを入れたまま喋るような、モゴモゴした声だった。
「お、お、お、お、おれが、お、お、お、おねがいした」スギさんはそう言うと橋脚のロゴを指さした。
「ローカルルールでさ、チームのロゴを入れた壁はそのチームのキャンバスになるんだ」千早さんが補足するように言った。「スギさんはいつか描いて欲しい絵があるからって、俺をここに連れて来たんだ」
「チャー、絵かくのうまい。し、し、し、しごとしてたらチャーにあった」そう言ってスギさんは目を細めていた。
「ほら、シャッター商店街ってあるじゃん。そこに依頼されて絵を描いてたら、リヤカーを引いたスギさんがずっと止まって見てたんだ」
千早さんはそう言って「随分昔だけどな」と話し始めた。




