静寂の継承(サイレント・バトン)
二〇二九年七月八日、十五時十一分。ボートレース宮島――G1宮島ダービー二日目・第七レース。
第一ターンマークにおいて、それは音もなく現出した。四号艇・安貞雄一のコンマ〇一のまくり強襲と、一号艇・和久田新一の黄金の防壁が衝突し、水面が激しく沸騰したその瞬間。二号艇の平野一貴は、マブイを持たぬ機体の異常な軽さを活かし、激突のエネルギーノイズすらも自らの推進力へと変換する「無色の隙間」を、最内から鮮やかに差し抜けていた。
通常、からくりエンジンはマブイの燃焼に伴い、独特の高周波を水面に響かせる。しかし、平野さんの機体は和久田親子の防御磁場を、あたかも存在しない幽霊のようにすり抜け、完全なる無音の影となってバックストレッチへと抜け出したのだ。後に「無音の暗殺差し(サイレント・キラー)」と呼ばれることになる、その技が炸裂した瞬間だった。
「なっ……機体の音が、聞こえなかった……!?」
首位を独走する平野さんの背後では、静岡の首領・和久田新一さんと、その息子である三号艇・佑樹による「親子の意地」が更なる防壁を築いていた。安貞の「残響の蒼龍」が猛烈な切り込みを仕掛けるが、新一さんと佑樹は血縁コードで強固に連結し、二艇の航跡を磁石の同極のように完全同調させていた。
「佑樹、後ろを完全に封じるぞ。佐賀の勢いを、これ以上この宮島で暴れさせるな!」
「わかってる、親父! 一センチの隙間も作らせない!」
第二ターンマーク旋回入り口。安貞が内へ外へとハンドルを切り換え揺さぶりをかけるが、和久田親子が築く秘技――「富士二重稜線」の分厚い引き波に、ことごとく叩き落とされる。
その激しい二位争いを、平野さんはバックミラー越しに冷徹な眼差しで捉えていた。
「(……静かだ。これが、僕のボートレースだよ、俊樹。マブイを捨て、ただ技術の海に沈む……)」
平野さんは、かつて山口支部へ移籍してきた愛弟子に語りかけるように、第二マークを極純たる鏡面の軌道で旋回。和久田親子が放つ威圧感も、安貞たちの狂暴な殺気も、すべてを無効化して滑るようにホームストレッチへと立ち上がった。
彼はそのまま独走態勢を崩すことなく、悠々とトップでチェッカーフラッグを受けた。
二着には親子の連携を崩さなかった一号艇の和久田新一さん、三着には三号艇の佑樹さんが滑り込み、佐賀の若き龍・安貞雄一は、惜しくも四着という深淵に沈んだ。
ピットに戻ってきた安貞は、悔しさのあまりハンドルのレバーを激しく叩いた。
「……すまない、大峰さん。僕の腕じゃ、捲りきれなかった……」
その折れかけた肩を、二着で戻ってきた和久田新一さんが静かに叩く。
「安貞くん、いい気合だった。大峰の龍を継ごうとするその覚悟、しかと感じたよ。だが、力任せでは俺たちのラインは崩せん。次は、その情熱を数式に変えるほどの冷徹なロジックを身につけてみろ」
安貞は溢れそうになる涙を必死に堪え、深く頭を下げた。
「……はい! 次は……次は必ず!!」
ピット裏の静寂の中、誠の足元でスーが静かに座っていた。速水誠は先輩である平野さんから受け取った「静寂のバトン」の重みを、その右腕に確かに感じていた。自分の後ろには、これほど強くて頼もしい仲間たちがいる。
(思い切り、飛べ――)
平野さんの背中がそう語りかけてくれた気がした。誠はヘルメットを抱え直し、自分にしかできない、あの白銀の空の軌道を夢見て、静かにその瞳を輝かせた。




