調律の茶人(ティー・マスター)
二〇二九年七月八日、十六時三十分。広島・ボートレース宮島。その空は、朱色から深い藍色へと移ろう逢魔が時を迎えていた。公式チャンネル「カササギ」のPVカウンターが刻む一億八千万という数字は、地球規模の視線の重圧となって水面へと静かに降り注ぐ。
第十一レース・予選特選。一人の男がピットに現れた瞬間、場を支配していた狂騒は、冷水を浴びせられたかのように一変した。
福井支部、藤島武士(51)。「歩く精密機械」、あるいは「水上の茶人」。
発走十分前、展示待機室において彼は、生死を懸けた戦いの直前だというのに、ただ平然と一服の抹茶を点てていた。
彼の総マブイは八万。十万を超える怪物たちに比べれば数値は劣る。しかし、藤島さんの真の恐ろしさは、そのマブイの純度にあった。一滴の茶を極限まで濾過するように、ノイズをすべて削ぎ落とし、完璧に洗練された秩序として愛機へと注ぎ込むのだ。
「藤島さん……あの人の周りだけ、マブイの揺らぎが一切ないっす。まるで、空間そのものが結晶化しているみたいで……不気味っすよ」
誠はあかりの言葉に頷き、自らの右手に宿る「銀の楔」の微かな疼きを感じながら、藤島という巨大な「正解の壁」を凝視した。
大時計の針が動き出す。一号艇の藤島さんは、吸い込まれるようにスリットラインを通過した。
「一号艇・藤島武士――ST【.一〇】!!!」
宮島の急激な引き潮の周期と流体抵抗を計算し尽くした、絶対的マージン。センターコースからの若手たちの全速捲りを、藤島さんは眉一つ動かさずに捌く。
「……無駄だ。その軌道、三手先ですでに「詰んで」いるよ」
藤島さんがハイドロハンドルを滑らかに傾けた瞬間、世界が静止した。
通常、艇体は波に叩かれて振動する。しかし藤島さんの機体は、磨き上げられた鏡面の上を滑るかのように、一点の乱れもない完璧な孤を描いて一マークを回航したのだ。外から攻め寄せた他艇の殺気は、藤島さんが意図的に残した「計算され尽くした引き波」に吸い込まれ、無慈悲に外側へと弾き飛ばされていった。
「藤島武士、完璧なるイン逃げ! 一億八千万の視聴者が、その静かなる恐怖を目撃!」
バックストレッチに出た時点で、すでに五艇身の圧倒的独走。その完璧な秩序の前に、すべての機獣はただ平伏するしかなかった。
回航の最中、藤島さんは通信機を入れ、誠の解析バイザーへ冷徹な響きを届ける。
「速水くん。君の「空」は面白い。だが、その翼は、この「理」を越えられるかな? 秩序のない飛翔は、いつか必ず自重で墜落する。三日目、君の「正解」を私に見せてほしい」
激戦を終え、美しく磨き上げられた藤島さんの機体を見て、誠は動けずにいた。
「あかり。藤島さんの言った通りかもしれない。俺の走りは、ただの奇跡に頼っているだけなんじゃないか……」
いや——と、すぐに思った。あかりの手が、スーの温もりが、あの深夜の整備室があった。奇跡じゃない。全部、誰かの「仕事」の積み重ねだ。
折れかけた背中に、あかりが力強く手を叩きつけた。
「何を弱気なコード吐いてるっすか! 現実のデータに書き換えてきたのが、師匠の「理」じゃないっすか! 藤島さんが水面に正解を書くなら、俺たちはその上から、誰も見たことのない答えを全力で書き殴ってやるっす!!」
足元のスーがフガァァッと一度だけ強く鼻を鳴らした。
宮島の海は、嵐の前触れとなるあまりにも深い静寂に包まれていた。




