鏡面連鎖(シャイン・ゲート)
二〇二九年七月八日、午後。G1宮島ダービー二日目・第七レース。
宮島の潮は急激に引き始め、世界遺産・厳島神社の大鳥居はその巨大な足元を干潟へと露出させていた。神域の風景が刻々と姿を変える中、ピットに並ぶ最強の六艇は、それぞれの属性を研ぎ澄ませて低く唸る。
ピット裏のモニターの前で、俺はスーを膝に乗せたまま、このレースを静かに見守っていた。
「誠の同部屋、瓜生が勝ったか……。だが、広島の海を山口の若造どもに易々と明け渡すわけにはいかん。安芸の神々は、我ら蔵野の刃に宿っておられる」
一号艇に鎮座するのは、広島が誇る金属性の名門「蔵野家」の若き当主、蔵野剛さんだ。彼の放つマブイは、冷徹なまでに研ぎ澄まされた日本刀のごとき殺気を孕んでいた。
狙うはただ一つ。最速の初動で外敵を両断する必殺の抜刀旋回――「金剛一閃」である。
だが、包囲するライバルたちも一筋縄ではいかない。三号艇の福岡の野獣・西野貴志さんが、あえて四コース側の引き位置を選択する変則戦術「三カド」の構えを取った。
「カドからの強襲こそが、ボートレースの華ばい! まとめて捲りきってやる! 九州男児の意地、見せちゃる!!」
大時計の針がゼロを刻んだ。
「三号艇・西野貴志――ST【.〇三】!!!」
完璧なロケットスタートから内側の艇を瞬時に置き去りにし、蔵野さんを目がけて絞り込んでくる。しかし、蔵野さんは瞬き一つしなかった。
「……遅い。我が金の理に、野性の風は届かぬ」
蔵野さんが金属性のマブイを解放した瞬間、一号艇の初速が物理法則を無視して跳ね上がる。西野さんの捲りが届くコンマ数秒前、最短距離で一マークの頂点を斬るように旋回。金の磁場が激流を割り、西野さんのハイドロプレーンを外側へと強烈に弾き飛ばした。
しかしその瞬間、その後方から恐るべき密度の静寂を纏って襲いかかる三艇があった。
「若いの。派手なマブイも結構だが、水面を本当に知っているのは誰か……教えてやろう」
四号艇・宮本太一さん(54)、五号艇・長谷川一樹さん(60)、六号艇・東野寧さん(53)。
全盛期を遥かに超えた領域へ達した、兵庫の熟練トリオ――「チームシャイン」である。
彼らには、コアマブイも外付けマブイも存在しない。測定器が表示するのは常に「〇」である。だが、彼らには数十年に及ぶ経験の重みがあった。エンジンの油にまみれ、何万回とプロペラを叩き続けてきた職人の魂。その名は、夕陽を浴びて神々しく鏡面反射する、美しきプロペラの特殊鏡面加工――「シャイン・ブレード」に由来していた。
二マークの旋回入り口。蔵野さんが残光を散らしてターンを決めようとした瞬間、一号艇の電子バイザーの視界が、強烈な白銀の流体波動に遮られた。
「なっ……!? 磁場が……引き裂かれる!?」
チームシャインの三艇が放ったのはマブイによる攻撃ではない。長年のプロペラ修正によって生み出された「一寸の狂いもない真空の水流」と、それに伴う極限の鏡面反射光。三つのプロペラが宮島の重い塩水を完璧にグリップし、太陽光と流体抵抗を計算し尽くした眩き整流――「シャイン・ウェーブ」を発生させたのだ。
蔵野さんの強固な金の磁場が、職人たちの生み出した真空の波動によって中和され、霧散していく。三人は阿吽の呼吸で、蔵野さんの艇体が外に流れたわずか数センチの隙間に、吸い込まれるように最内からハイドロエッジを差し込んだ。
三枚の鏡面プロペラが連鎖して放つ鑑面連鎖の差しが、蔵野さんの黄金の磁場を内側から静かに突き破った。
「な、なんだあの差しはぁ!? チームシャイン、最内から一連の加速で突き抜けたぁ!!」
蔵野剛さんは金の感覚を頼りに強引に機体を立て直すが、宮本さんの「どこからでも差す」職人芸に引き波さえも加速推進力へと変換され、遥か彼方へと置き去りにされていく。
宮島の空に、夕陽と三枚の鏡面プロペラが放つ白銀の光が交差する。
「わしのペラ調整、宮島の引き潮に完璧に合ったわい……。若いもん、これが「仕事」っちゅうもんや」
東野さんの静かな呟きが、激しいエンジンの轟音の中に融けて消えていった。
ピット裏で、俺は膝のスーの頭を静かに撫でた。
数値ゼロの三人が、金属属性の若き当主を技術だけで破った。あかりが俺の横に静かに立ち、呟いた。
「師匠……。「仕事」ってすごいっすね」
俺は答えなかった。ただ、胸の奥で何かが新たに静かに灯った気がした。




