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からくり競艇 ~黄金の波切り、魂のフルスロットル  作者: 水前寺鯉太郎
第3部:誠の試練編

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無色旋回(ゼロ・トランス・ターン)

二〇二九年七月七日。ボートレース宮島――G1宮島ダービー二日目・第五レース。


 番組表が発表された瞬間、ピット裏には冷え切った緊張が走った。一コースに構える瓜生俊樹。それを包囲するのは、広島支部が誇る鉄壁と剛腕だ。かつて広島から山口へと籍を移した瓜生に対する、情け無用の「裏切り者狩り」の陣容だった。


「逃がさんけぇ。お前が広島を捨てて山口へ魂を売ろうが、安芸の海はすべてを見とるわ」


 二号艇の浅野忠行さんが土属性のマブイを注入すると、周囲の水面がドロリと変質し、凄まじい粘り気を帯び始めた。相手の機動力を物理的・霊的に拘束する、浅野家秘伝の防壁「沈まぬ巨城マッド・フォートレス」の展開だ。三コースには、重鎮・堀尾大輔さんとチワワの源助が構えている。


「瓜生くん、悪いがここは大人の時間じゃ。源助も行く気満々じゃ」


 対する瓜生は、相変わらず掴みどころのない男だった。コアマブイも外付けユニットも、すべて「〇(ゼロ)」。計測器が値を出せないほどの微細な数値であり、燃料のないエンジンで走るに等しい自殺行為とされるが、彼は凪いだ海のような無表情で、膝の上のパグ・パスタを優しく撫でていた。


 パスタが短く鼻を鳴らした。

 その瞬間、瓜生さんの周囲数メートルは、音も光もすべてを吸い込むような奇妙な静寂に包まれた。

 スリットを通過した浅野さんが土属性を解放し、水面が物理的な泥沼へと変貌する。その泥濘に足を取られた一号艇の懐へ、堀尾さんと源助が一体となった全速ダンプの軌道で突っ込んでくる。

 まさにその時、パスタが天を仰いで大きく吠えた。


「ワンッ!!」


 瓜生さんの「マブイ〇」という空虚な領域が、その声を合図に完全反転した。からくり競艇における攻撃や干渉は、相手の「マブイ」という存在感に反応して初めて成立する。しかし、今の瓜生さんにはそれがない。浅野さんが放った粘りつく泥も、堀尾さんが叩き込もうとした質量爆弾も、干渉すべき対象を見失い、幽霊を通り抜けるように瓜生さんの艇をスカリとすり抜けていった。


「なっ……機体が、掴めん!? 手応えが……消えただと!?」


 浅野さんが愕然とし、堀尾さんのダンプが何もない空間を空しく切り裂いて外側へと流れ去る。その混沌の真ん中を、瓜生さんの一号艇は摩擦を一切感じさせない透明な軌道で、最短距離をくるりと回ってみせた。物理学を無視した絶対の超速反転――

無色旋回ゼロ・トランス・ターン」だ。


「瓜生俊樹! 広島の鉄壁を完全に無力化! マブイ〇のダークホースが、生まれ故郷の海に静かなる衝撃を刻みました!!」


 瓜生は表情一つ変えず、淡々とトップでチェッカーフラッグを受けた。ピットに戻った瓜生は、駆け寄ってきた俺と静かに拳を合わせた。


「誠……。パスタが、レース中ずっと潮の方向を向いて鼻を鳴らし続けてた。あいつの感応がなかったら、俺はあの泥沼で沈んでたかもしれない」


「最高だったよ、俊樹。お前の「無」、世界が震えてたぜ」


 ピット裏でそのレースを見守っていたスーが、パスタに向かって一度だけ短く鼻を鳴らした。パスタがフゴッと応じる。二匹の間に交わされた言葉は、俺たちには分からなかった。


 親友の勝利は、俺自身の闘志に再び熱い火を灯した。河田元気さんに敗れた痛みは消えない。しかし瓜生さんの勝利は、このからくり競艇にはまだ新しい可能性が眠っていることを証明していた。


 ピットの奥深く、蔵野剛さんの瞳に黄金の殺気が宿る。山口の若き天才たちを叩き潰すべく、広島の金の龍がいよいよその牙を剥こうとしていた。

 整備室へと籠もった俺とあかりが、プロペラの調整に向き合う。


「次のデバイス「玉ノ井」の裏の裏の電算数式を、思い切って試してみようか」


「師匠、そこはジャイロが焼き切れる危険な領域っす! でも……やるしかないっすね!」


 一億人を超えた衆望が渦巻く中、宮島の潮は再び満ち始める。安芸の海に再び白銀の翼が舞うまで――あと数時間。

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