重力変転(グラビティ・シフト)
二〇二九年、七月七日。ボートレース宮島――G1ダービー、最終周回。
第二ターンマークの旋回入り口。俺の右舷側から、焼けるような熱気が凄まじい勢いで押し寄せた。
「誠! 悪いがそこは俺の通り道だ! これがブラジルの熱風、サウダージの加速だぜ!!」
六コースからチルト三度の超抜仕様で攻め上がってきた、クーロン・サカモト。赤銅色のマブイが宮島の満潮のうねりを力技でねじ伏せ、俺の右側に鋭い牙を立てる。その暴力的な飛行ラインを以て、俺を強引に外側へと弾き飛ばしにかかる。
しかし、俺を真に戦慄させた脅威は、サカモトの背後に潜んでいた。音もなく、しかし圧倒的なまでの質量感を持って忍び寄る三号艇・今川暢さんだ。
「若者たちが空を飛ぶというのなら、私はその下の「海」を支配するだけだ……。地に足の着かぬ魂に、安芸の神々は微笑まないよ」
コアマブイ十万。今川さんが全エネルギーを水面へと叩きつけた。彼が通過した後の海面は、巨大な重力波が直撃したかのように平坦に鎮まり、周囲の艇を根こそぎ海中へと引きずり込もうとする、強烈な吸引力を発生させた。
スーが「フガァァッ――!!」と悲鳴のような鼻息を上げた。その息遣いが俺に危機を告げた。下だ。今川さんのマブイが、海面ごと俺たちを引き込もうとしている。
チルト三・五の浮揚力が、今川さんの圧倒的な重圧によって相殺され、黒銀の機体が激しく海面へと叩きつけられる。サカモトの野性的な伸びで外側に振られ、今川さんの十万マブイで浮力を奪われる。二人のベテランは、俺の「不安定な飛行」という弱点を完璧に突き、完全に袋の鼠へと追い込んでいた。
「師匠! 浮こうとしちゃダメっす! 今の出力じゃ、今川さんの重力にマブイをすべて吸い尽くされるっす!!」
ピットでモニターを凝視するあかりが、通信機越しに絶叫した。
「デバイス「玉ノ井」の電算入力を反転させるっす! 浮力をすべて吸着力に変えて、この海を掴むっす!!」
俺は一瞬だけ戸惑った。浮くことを捨てれば、チルト三・五の優位性はすべて消える。しかし、あかりの言葉に迷いはなかった。俺は歯を食いしばり、コンソールの調整ダイヤルを逆方向へと叩き込んだ。
「耐えてくれ、三十九号機。一億の期待を、飛ぶための翼じゃなく、沈まないための重りに変えるんだ!!」
今川さんの重圧を拒絶せず、その圧倒的な重力に身を任せるように、機体の姿勢を極限まで低く保つ。上空へ逃げようとするエネルギーを電算反転によって、水面を強固に握りしめるためのダウンフォースへと変換した。
虹色のナノコーティングを施された「玉ノ井」プロペラが、宮島の複雑な潮流をガッチリと捉える。
第二マークの頂点。河田さんが黄金の火花を散らして高速ターンを決める直後、俺は今川さんの重力に押し付けられた荷重をそのまま旋回力へと利用し、水面を抉るような「超低空限界旋回」を敢行した。
サカモトが遠心力で外側に膨らむ中、三十九号機は海の一部になったかのように吸いつく旋回で、今川さんの支配領域を最内から鮮やかに突破していく。
「……信じられない。今川の十万マブイという絶望的な圧力を、誠は旋回半径を縮めるための向心力に変換したのか……!」
大内さんが震える手でデータを見つめる。
しかし、その激突の直後、静観していた五号艇・藤島武士さんが、精密に計算された最短の隙間を縫って冷徹な牙を剥き始めた。
「美しい混沌だ。……さて、お点前を拝見しようか」
安芸の神々が見守る海。一億を超えた衆望が再び、俺の背中で爆発的な白銀の光を放とうとしていた。




