第93話:鳴門、咆哮 ― 逆巻く潮流の試練 ―
巨大湧き潮の現出
ボートレース鳴門、準優勝戦12R。大時計の針が最終周へ差し掛かろうとした瞬間、水面はもはや競技場の原型を留めていなかった。
巨大湧き潮の正体:
万魂石に蓄積された9,300万人分のマブイ。的中を願う強欲、敗者の怨嗟、そして速水誠の「闇」への恐怖が、潮の変わり目のエネルギーと共鳴。物理法則を歪め、海面をコンクリートの塊のように突き上げる。
チルト3度の誤算:
幸田が選択した「チルト3度」は、静水面では無敵の伸びを誇る。しかし、不規則に隆起するこの「ボルテックス」では、浮き上がりすぎた艇体は足元を掬われる致命的な弱点となった。
「……ッ、なんだこの水面は!? 船底が下から叩きつけられるっす!」
5コース、野田あかりが悲鳴を上げた。精密な「整流」でさえ、地球の拍動のようなうねりには太刀打ちできない。2コースの絶対王者・河田元気でさえも、波の壁に捕まり失速を余儀なくされていた。
幸田の「阿波の跳ね馬」が激しくバウンドし、空を切るプロペラが虚しい金属音を奏でる。
「うぬっ……! 鳴門の神が我らをも呑み込もうというのか!」
混沌の中、一艇だけが異様な「静寂」を纏っていた。
(誠! 水を見るな! 物理的な波に惑わされるな! 『マブイの流れ』だけを追え!)
シロが地の底から響く声で唸る。誠は大内から転送された「整流データ」を脳内で展開し、瓜生から学んだ「水の記憶」――すべてを許容する水の真理を、自らの闇と融合させた。
「……シロ、行くよ。このうねり、逆らうんじゃない。……『餌』にするんだ」
誠は漆黒の39号機を、誰もが死を予感して回避する渦の「中心」へと突っ込ませた。黒いパーツが狂ったエネルギーを根こそぎ吸い込む。渦の回転エネルギーを強引に取り込み、質量を持った推進力へと変換する禁忌の技。
『重力加速』!!
黒い雷鳴を纏った機体が、レールの上を走る弾丸のように水煙の中から飛び出した。
「幸田さん……! 誠師匠の隣には、私が……私が行くっす!!」
野田あかりは「整流」の極致を、折れそうな腕でハンドルに叩き込んだ。荒れ狂う水面を刃物で切り裂くような鋭いモンキーターン。あかりの想いが、幸田の懐へと飛び込む。
一瞬、あかりの舳先が幸田を捉えた。ピットの大内が拳を握りしめ、数千万の「あかりファン」が絶叫する。
しかし、レジェンドの壁は高く、あまりに静かだった。
幸田文哉は自らのマブイを「潮の重み」へと変え、跳ねる機体を強引に押さえ込んだ。あかりが作ったわずかな引き波の隙間。幸田はそこへ、チルト3度の伸びを一点集中で突き刺した。
「見事だよ、野田くん。君の想いは誠くんに届いている。……だが、彼を奈落から導く役目は、まだ私にあるようだ」
最終ストレート。漆黒の稲妻となった速水誠が、圧倒的なトップでチェッカーを受けた。
その数秒後――。幸田とあかり、二艇が火花を散らしながら同時にゴール。掲示板に表示されたのは、コンマ数秒の差で幸田が競り勝ったことを示す非情な数字だった。
【準優勝戦12R:最終結果】
1着:速水 誠(1号艇) 闇の深淵を加速に変え、異次元の独走。
2着:幸田 文哉(6号艇) レジェンドの底力。コンマ差であかりを退ける。
3着:野田 あかり(5号艇) 惜敗。誠への「整備(想い)」は届かず。
あかりは減速する機体の中で、ヘルメットが曇るほど声を上げて泣いた。誠を救うためにすべてを懸けたが、鳴門の神が選んだのは、かつての伝説だった。
ピットに戻った誠は、表情を完全に失っていた。右腕からは腐食性の黒い蒸気が立ち上っている。
歩み寄った幸田が、黄金のマブイを纏った手で誠の肩を叩いた。
「誠くん。決勝は……小手先の技も道具も通用しない。本当の『密度』のぶつかり合いになる。君の闇の底に何があるのか、私に見せてくれるかな?」
誠は無言で見つめ返した。その瞳の奥で、一瞬だけかつての白銀が火花のように明滅した。
背後では、あかりを大内と瓜生が迎え入れていた。彼女の敗北は無駄ではない。あかりの「調律」がなければ、誠は今頃、渦の中で粉砕されていただろう。
【衆望万魂祭:優勝戦(決勝)メンバー】
| 艇番 | レーサー | 属性・機体 | 出走の動機 |
| 1 | 速水 誠 | 闇 / 漆黒の39号機 | 闇の先にある「景色」を求める。 |
| 2 | 幸田 文哉 | 光 / 阿波の跳ね馬 | 誠を救い、自らの「答え」を証明する。 |
| 3 | 守屋 あおい | 氷 / 氷晶の天女 | 嫉妬を愛に変え、誠を引き戻す。 |
| 4 | 大峰 幸太郎 | 龍 / 佐賀の龍神 | 宮地の無念を背負い、王道を貫く。 |
| 5 | 河田 元気 | 金 / 絶対王者 | 敗北から這い上がり、王座を奪還する。 |
| 6 | 蔵野 まい 機 / 機獣使い | すべての機獣の声を届けるために。 |
鳴門の夜。万魂石は翌日の決戦を控え、音を立てて震えていた。衆望はついに1億人を突破しようとしている。
誠は独り、暗い整備室で己の腕を見つめていた。
(誠……。明日は最高の『餌』が揃ってるぜ。飲み込め。すべてを飲み込んで、お前が唯一になれ)
シロの囁きが魂に根を張る。だがその時、ポケットに忍ばされた小さな銀色のボルト――あかりが託した、壊れた世界を繋ぎ止めるための部品が、微かな温もりを放った。
「……あかり、あおい。俺、まだ……笑えるかな」
誠の独り言は、不気味な潮騒にかき消された。




