安芸の聖地
下関でのSG初戴冠から二ヶ月。世界遺産・厳島神社の大鳥居が汽水面に浮かぶ広島の聖地へと、舞台は移った。瀬戸内海の穏やかな海面の下には、最大四メートルに達する干満差の複雑な潮流と、安芸の神域としての厳かなマブイが渦巻いている。
大宮で育ちながら、ここ宮島は誠にとって特別な場所だった。かつて堀尾大輔に敗れ、三着で下関に帰った夜の水面の記憶が、今も胸の奥に残っている。
宮島のピットは夏の強い陽射しを反射して白く輝いていた。俺のレーシングスーツは、黒影の時代の煤けた暗黒から、眩いばかりの純白へと新調されている。傍らには、かつて闇に呑み込まれかけた面影を完全に消し去り、透明感のある白銀の輝きを放つスーが静かに座していた。
「誠師匠、宮島の潮は気まぐれっす。でも今の三十九号機なら、鳥居の向こう側の風も掴めるはずっす!」
あかりが差し出したのは、干潮時の浅瀬と満潮時の重く冷たい水質を両立させるために再設計された、真珠色の特殊プロペラ――「玉ノ井」だった。
「ありがとう、あかり。……スー、準備はいいかい?」
スーがフガフガと鼻を鳴らし、その短い尾をちぎれんばかりに振る。
地元・広島支部の強者を迎え撃つ面々は、鳴門や下関のライバルたち以上に土着的で強固な「安芸の壁」だった。東京支部の蔵野まいの双子の兄・蔵野剛さんが、誠の王座戴冠に冷徹な異議を唱える。
「速水誠……。我らが安芸の海で、どこまでその技が通用するか、試させてもらう」
剛さんの機体「黄金の断頭台」が放つ鋭利な金属殺気が、夏のピットの温度をわずかに下げた。
前検日の夜。俺とあおいが神社の参道を歩いた。あおいの傍にいる空気が少し変わった。あの執着の鋭さが、何か別のものに変わりつつある気がする。七夕の季節、笹に飾られた色とりどりの短冊を前に、あおいが「誠は何を書くの?」と静かに微笑む。
俺が震える手で書き記したのは、短い願いだった。
『全人類のマブイが安らかであること』
一億人以上の衆望を一身に受け、その欲望と恐怖の濁流を知り尽くした俺だからこそ書ける、切実なる祈り。その瞬間、胸元のマブイ石が厳島の大鳥居から放たれる神聖な波動と共鳴し、かつてないほど清らかな鈴の音を響かせた。
七月七日、初日第十二レース。
七夕の正午、宮島は満潮を迎え、鳥居の根元が完全に水に浸っていた。
展示航走。六号艇のクーロン・サカモトが真っ先に躍り出る。
「チルト三・五が神の領域なら、俺の三・〇は野性の証明だ。抜き去ってやるよ!」
「スー、宮島の神様に挨拶だ。……行くよ!」
チルト三・五、セット。俺の白銀黒影が水面からふわりと浮き上がる。しかし、宮島の重い海水から立ち上る神域の流体抵抗が、俺の銀翼を容赦なく引っ張った。
五号艇の藤島武士さんがコアマブイ八万を指先一つの精密操作で統御し、鏡のような水面旋回を見せながら呟く。
「空中戦、結構なことだ。だが、無駄な動きは身を滅ぼす。美しくないね」
三号艇の今川暢さんが十万マブイという絶大な重圧を水面に叩きつけた。彼が通る場所だけ、波が恐怖に震えるように鎮まり、周囲の艇を吸い込もうとする磁場が生まれる。鎮属性の「面の防御」。福岡で一度経験した、あの圧だ。
「スリットライン。一号艇・速水誠――ST【.〇〇】!!!」
「また……! またしてもコンマゼロゼロだぁぁ!! 下関の奇跡は、神の気紛れではなかった!!」
実況の絶叫が安芸の空に響く。俺にとって、大時計の針はもはや見るものではなく、自分の魂の拍動そのものとなっていた。
ピットの隅で展示リザルトを静かに見つめる地元広島の重鎮・堀尾大輔さんが、低く呟いた。
「下関でのオールスター初戴冠、見事じゃった。じゃが、ここは宮島。昔負かしたガキが主役を演じられると思うなよ」
俺はヘルメットを被ったまま、静かに堀尾さんの方向へ向き直った。
「堀尾さん。俺の空は、一人で飛んでいるんじゃないんです。みんなが作ってくれた、山口の、そして世界中の一億の羽なんです!」
からくり競艇、新章。安芸の神域を舞台にした、魂の削り合いが今、幕を開けた。




