銀色の風の航跡
二〇二九年、五月。ボートレース下関――SG「衆望万魂祭」、優勝戦・第十二レース。
最終周回バックストレッチ。一号艇の三十九号機が、黒銀の帯を水面に長く引きずりながら、この世のすべてを切り裂くような神速で直線へと躍り出た。
「……逃げ切る。この空の先は、世界の誰一人として、一ミクロンも触れさせない」
スーがコックピットの底で深紅の瞳を激しく滾らせ、狂気染みた野生の咆哮を上げた。その咆哮が俺の推進力と重なった。一億人分の想いと悪意のすべてが、最高速で回るエンジンの燃料に変わっていく感覚がある。
しかし、その暗黒の静寂を切り裂いたのは、重厚な金属の龍が放つような、圧倒的な咆哮だった。
「勝利の重圧に駆られて、一番大切なことを忘れてしまったのかい? この関門の激流を支配するのは、禁忌の闇の力などではない。……極純たる、流体力学の理だよ」
五号艇・幸田文哉さんが、チルト三度を解禁した。ハイドロ底板が水面から完全に物理浮上し、時速百二十キロを超える飛翔滑走を開始する。三艇身あったはずのリードが、網膜の瞬きほどの間に消失していく。
「……幸田さん。あなたが教えてくれた風の先を、僕たちはもう……この絆の力で見つけ出しているんだ!!」
俺は右腕のナノ端子を介し、三十九号機のハイドロシステムへとダイレクトに強制介入した。あかりが深夜の整備室で打ち込んでくれた六枚の「銀の楔」が、俺の覚醒したマブイパルスに呼応して、カウルの奥底で激しく、白銀に明滅する。駆動フレームがギチリと悲鳴を上げ、プロペラの仰角が前人未到の座標へと固定された。
「チルト三・五……起動ッッッ!!!!」
「浮いた……!? 一号艇、速水誠! 水面を完全に離脱――飛んでいますッッ!!」
三十九号機が水面から数十センチ浮上した、低空滑空状態へと完全変容する。摩擦抵抗ゼロの加速が真空を切り裂き、機体速度は時速百五十キロを瞬時に突破。幸田さんの三度が水面を極限まで削る旋回なら、俺の三・五度は空を切り裂く飛翔だった。二艇は水飛沫すら上げず、空中でのしかみ合う火花だけを航跡に残して最終マークへと雪崩れ込んだ。
コックピットの底でスーが放った、極純なる白銀の光。その光は、ピットで祈るあかりや大内の想いだけでなく、コース外へ散っていった河田さんの矜持、あおいの愛、大峰さんの龍神パルス、蔵野さんの風のすべてを吸い上げ、俺の推進力へと昇華させていく。
「いっけえぇぇぇぇぇッッッ!! 誠師匠――っ!!」
ピットの端で、油にまみれた拳を突き上げるあかりの絶叫。幸田さんの至高の三度を、俺とスーの絆の三・五度が空の軌道で鮮やかに抜き去った。
「ゴォォォォォルッ!! 勝ったのは一号艇、速水誠! 闇を統べ、絆を掲げた新王者が、今、下関の頂点に君臨しましたァァァッッ!!!!」
下関の夜空を、一億人の想いが結晶化した虹色のパルス花火が埋め尽くしていく。
ヘルメットを脱いだ俺の瞳には、かつての孤独な闇は一ミクロンも存在していなかった。仲間たちの絆を力に変えた、深く澄み渡る「夜明けの銀色」が、そこにただ静かに宿っていた。
「あかり……やったよ。みんなの想いが、俺をあの空まで運んでくれたんだ」
あの日、大宮の掃き溜めで端末の画面越しに見上げるしかなかった最高峰の舞台に、今、俺は一着で立っている。それだけで、胸の奥から何かが溢れてきた。
「……最高にかっこよかったっす、誠師匠」
二着の幸田さんが歩み寄り、俺の右手のグローブを力強く握りしめた。
「見事だ、速水くん。君が見せた三・五度の景色……それこそが、私が夢に見た、このからくり競艇の新しい未来だよ」
十七時。下関の美しい夕陽を浴びながら、俺とスー、あかり、大内の四人は、黄金色に凪いだ水面を見つめていた。あおいが俺の隣に静かに立った。何も言わなかった。ただ、関門海峡の夕陽が、二人の白銀の勝負服を等しく照らしていた。
スーがフガフガと、短い尾をちぎれんばかりに振っている。
「師匠、次の目標の座標は、もう電算できてるっすか?」
俺は優しく微笑み、水平線の先へと視線を向けた。
「次は夏のG1ダービーだね。そこで待っている強敵たちにも、この山口の、白銀の風を届けにいこう」
白銀の王者の航跡は、ここで終わらない。絆という名の銀の楔を、俺たちはこの胸に、永遠に深く打ち込んだのだ。




