鉄の号泣
八月上旬、聖地・大阪、住之江競艇場。
ナイター開催のカクテル光線に照らされた住之江の水面は、真っ赤に溶けた金属のように重く黒く輝いていた。日中の容赦ない日差しに焼かれた水温は夜になっても三十度を遥かに超え、艇たちの霊子ボイラーが臨界寸前の悲鳴を上げ続ける。コンクリートの護岸が熱を閉じ込め、命を削りに来る灼熱の監獄だ。
住之江オールプロ特選レース、予選最終日、第十二レース。
俺――速水誠は、圧力計の異常な数値を睨みながら、菜奈の声に耳を傾けていた。
『誠、瓜生くん! スーがずっと南の水門を睨んで鼻を鳴らしよる! 電算気象レーダーに映らんレベルの変則波が、すぐそこに迫りよるきね!』
水面も痛みも同じように感じ取る犬だ。俺は乱れる呼吸を整え、顎を引いた。
「瓜生。スーの読み通りだ。水面の下でうねりが変わるぞ」
『護岸の反発波の完全反転まで、あと十七分。予備数式に組み込み済みだ。問題ない』
だが隣のピットから、長崎支部の女傑・森由美子さんの一号艇が放つマブイの重圧が津波となって押し寄せていた。コアマブイ値一万八千。二十年間トップを張り続けたベテランの技が、肌に圧としてのしかかる。
この一着を逃せば、予選通過が消える。住之江への切符が、消える。
胸の奥で、暗い火が灯った。一千の出力で勝つためには、綺麗事を言っていられない。他人の力すら強引に奪ってでも前に出る。その考えが、俺の頭の中で毒のように広がっていた。
「行くぜ、三十九号。……俺に勝たせろ」
ゼロ――! 住之江の夜が爆発した。
インコースから抜け出た森さんの熱波が大外から突っ込んできた俺を直撃し、ダッシュボードの温度計が瞬時にレッドゾーンへ跳ね上がる。
俺はその衝撃波の渦に対し、あえてステアリングを真っ向から叩き込んだ。森さんが作り出した熱圧のエネルギーを、三十九号機の吸気口へ強引に流し込み、跳躍の踏み台にする。焦りの果てに選んだ、狂気の流体逆調和だ。
――ギギ、ガガガガガキィィィンッ!!
クランク軸の最深部から、聞いたことのない悍ましい金属の絶叫が響いた。同時に、脳髄を直接殴りつけるような拒絶のパルスが全身を貫く。
「動けェェェッ!!」
俺は操縦席で叫んだ。
「たかが道具が、四の五の言わずに俺を走らせろぉぉぉッ!!」
通信機の向こうで、瓜生が息を呑む音が聞こえた気がした。
シリンダーが完全にインターロックを起こした。吸い込んだ熱圧がすべて体内へと強烈に逆流し、肺が裏返るような衝撃が俺を貫いた。俺は鮮血を吐き散らしてカウルへ突っ伏す。ボートが水面を激しくバウンドし、虚空へと跳ね上がった。
意識が、白く飛びかける。それでもステアリングを離さなかった。
瓜生の四号艇が森さんの引き波のエネルギーを外側へ美しく分散させた。その一瞬の減圧の隙に、大破寸前の三十九号機は命からがらチェッカーをくぐり抜けた。
二着。
ピットへ帰投した三十九号機は、鉄屑のように重く水面へ沈んでいた。ダッシュボードのエラーコードが血のように赤く点滅し続ける。俺はコックピットの中で、しばらく動けなかった。
「……誠のノイズがシステムをダウンさせた。こんなこと、初めてだ」
青ざめた顔で端末を叩く瓜生の声が、遠くから聞こえた。
ピット裏の通路で、菜奈に抱えられたスーが、俺の脛へと必死に鼻を擦りつけていた。潤んだ黒い瞳が、煙を上げる三十九号機の深い痛みの微振動を正確に察知していた。俺は腰を下ろし、震える手でスーの温かい首回りを抱きしめた。その温もりだけが、狂いかけた俺の心をかろうじて繋ぎ止めた。
重い足音が近づき、森由美子さんが長崎カステラの桐箱を俺の前に無造作に置いた。
「さっきの旋回。三十九号機が魂の底から嫌がって泣いていたの……分かった?」
夕闇の水面を見つめ、由美子さんは続けた。
「私も昔、同じことをやった。機体を消耗品として搾り取る走りは速い。でも長くは持たない。機体が先に、心を病んで死ぬのよ。……あんた、そんな搾取の関係になりたくてプロに上がってきたわけじゃないでしょ」
胸を錆びた楔で刺されたような衝撃が走った。俺は三十九号機のカウルに手のひらを乗せた。伝わってきたのは、今まで感じたことのない、かすかで冷たい、明確な拒絶の振動だった。この汚れた手では、もうこれ以上触れることすらできなかった。
「俊樹。今夜、三十九号機に謝りながら……ボルト一本残さず、全部ばらして組み直す。手伝ってくれ」
「謝りながら全解体か」
瓜生は端末をポケットへ仕舞い、どこか救われたような不敵な笑みを浮かべた。「非効率で非論理的な相棒だ。――だが、やる。僕の計算の余白を、もう一度お前と叩き直すためにね」
「すまん、菜奈。プロペラのデータ、もう一回付き合ってくれ」
「……当たり前やんか、この大馬鹿野郎」
菜奈が涙目のまま、俺の血塗れの防護服を睨みつけた。
控室の隅で、スーが安心したように丸くなり、静かに寝息を立て始めた。
俺は工具を握り、三十九号機の前に静かに跪いた。傷だらけの鉄の相棒が、今は何も語らずにそこにある。あの日、冷え切ったカウルに掌を乗せて「待たせたな」と言った、あの夜からもう一度やり直す。
「……悪かった。もう一回、頼む」
プロとしての真の覚醒は、相棒への謝罪の夜から、もう一度始まる。




