深海の同期
午前二時。住之江本戦を目前に控えた、専用整備場。
外の灼熱の夜風は遮られ、作業デスクの上には完全解体された三十九号機の霊子エンジンが並んでいた。深海で斃れた怪物の臓物のように、熱いオイルの匂いを放ちながら妖しく明滅している。
燃料バルブの内壁には、他者のマブイを強引に吸い込んだ過負荷による微細な歪みが刻まれていた。工具を当てるたびに、鉄の分子がキィィンと耳障りな拒絶音を立てて微振動する。この一年間、どんな過酷な水面でも感じたことのない、相棒からの明確な拒絶だ。
机の隅の公式パンフレットに、同期の守屋あおいからのメッセージが走っていた。『今のスカスカの設定じゃ、住之江の第一マークで消波装置に激突して死ぬわよ』。
「その傲慢な暴力のままでは、一生そのからくりにマブイは通らないぞ」
背後の闇から、瓜生俊樹の声が静かに落ちた。重いクランクケースを両腕で抱えたまま、影の中に音もなく立っている。眼鏡の奥の瞳には、システムダウンを目の当たりにした者の凄絶な隈が刻まれていた。
「わかっているなら、なぜ同じ過ちを繰り返す。……住之江の予選での負けは、俺の流体計算の完全なミスでもある。だがな、誠。お前を死なせるための計算など、俺は死んでも組みたくない」
俺は三十九号機のバルブを見つめたまま、拳をゆっくりと握った。返す言葉はなかった。ただその一言が、胸の奥の歪みを静かに溶かしていくのを感じた。
脳裏に、下関の朝霧の中で聞いた平野さんの声がよみがえった。
――消すんやない。薄くなれ。命の密度を、この関門の冷たい海水と同じにするんや。
今夜の胸には、もうあの日の焦りは一切なかった。十万超えの修羅への恐怖も、勝ちたいという黒く濁ったエゴも、綺麗に消え失せていた。俺はただ、傷だらけの相棒に対して、心の底から謝罪した。……すまなかった、と。
俺は瓜生の絶縁スパナを握り、ピストンをシリンダーの奥へと静かに戻し始めた。己の一千のマブイを、空気よりも淡く引き延ばしていく。出力を上げるんじゃない。ただの細い煙のようにして、バルブの歪んだ隙間へとそっと沿わせていく。押し込まない。鉄の分子の隙間へ自然に滑り込める道を、じっと待った。
何も起きない。ボルトを締める冷たい金属の感触が、ただ手に残るだけ。もう一度。やはり、何も起きない。
三度目。最後のヘッドカバーを閉じる瞬間、俺は肺の空気をすべて吐き出し、自らの存在の主張すら完全にやめた。住之江の暗い水面へ溶けるように、ただ指先を添える。
――世界が、静かに沈んだ。
整備場の天井で鳴っていた蛍光灯の不快な羽音が、消えた。それだけだった。それだけで十分だった。音も熱も、時間という概念すらも、薄い膜の向こうへと遠ざかっていく。俺自身の心音さえも消え失せたかのような、完璧な虚無の領域。
――かちり。
静寂の最深部で、瑞々しい命の音がした。機械音ではない。水滴が水面に落ちるような音。組み上げられたバルブの内壁が、俺の「無」を受け入れるようにして、滑らかに、自然に動いたのだ。
ドクンッ。
三十九号機がこれまで刻んできた歴戦の記憶が、濁流となって俺の脳髄へ直接流れ込んできた。関門海峡の三角波の中で、平野さんの右腕を容赦なくへし折った瞬間の衝撃。上田校長の世界への夢を粉々に打ち砕き、湖底へ沈んでいった無数の敗北の悔恨。俺はその重さを、全部受け止めた。この機体が背負ってきたものを、これからは俺も一緒に背負う。そういうことだと思った。
クランクの振動が、十年の呪縛から解き放たれたように、狂おしく、優しく脈打つ。
「……直ったのか」
時間が再び動き出し、瓜生が静かに尋ねた。
「わからない。でも……あいつが今、俺の手を受け入れてくれた。何かが、決定的に変わった」
瓜生は小さく息を吐き、獰猛に唇を歪めた。
「なら確認してすぐ寝ろ。俺の方程式の余白も、お前とあいつの本当の骨格に合わせて、今夜中に叩き直しておく。……最高の方程式を、住之江の夜空に叩き込んでやる」
瓜生は立ち上がり、出口のドアを押した。振り返らなかった。どこまでも不器用で、熱い男だった。
残された深い静寂の中で、俺は組み上がったエンジンのボイラーへと、もう一度掌をそっと当てた。先ほどまでの拒絶の痛みは微塵もない。代わりに、俺の血流と寸分違わず同期する、熱く厳かな脈動が確かに脈打っていた。
「待ってろよ、住之江」
俺は三十九号機のカウルを、静かに撫でた。
「俺の一千の"無"で、あの最速のコンクリート水面ごと、すべてを切り裂いてやる」
闇に沈む俺の瞳には、もう焦りの炎など灯っていない。ただ深海の底のような、澄み切った静けさだけがあった。




