虚無の洗礼
ピット離れとは、ピットに待機しているボートが出走のブザーで一斉に発進すること。
素早く離れることができた場合ピット離れが良いと一般に言われる。
係留機とは、ボートを停めるピットとボートの連結部分。自動で外れるタイプと選手が紐を引いて外すタイプがある
目を覚ました時、耳に届いたのは、天井の空調が吐き出す無機質な風の音だけだった。
酷く白い天井。静脈に深く刺さった点滴の針。動かそうとするだけで骨の髄まで破滅の痛みが染み込む、満身創痍の肉体。ここが倉敷市内の病院のベッドの上だと理解するまでに、ひどく長い時間を要した。
児島特選の優勝戦。第一マーク。鎌倉明奈の放った七万の「完璧な無」。あの人が作り出した超高密度のブラックホールが、周囲の水面と空間の霊子をすべて強制的に吸い尽くし、絶対的な真空の壁を形成した。その静寂に触れた瞬間、ボイラーの中の一千のマブイが世界の枠外へと掻き消されたような錯覚に陥った。消えた、と。その恐怖のせいで、俺はあの刹那に激しく焦った。消えかけた一千を取り戻そうとして、平野さんの忠告を忘れ、力に頼ってスロットルを強引に押し込んだのだ。
推進力を完全に失い、気流を狂わされたチルト三・〇の艇体が、時速百十キロのまま宙へ跳ね上がり、水面という名の冷徹なコンクリートへ激突した。カウルが粉々に砕け、肋骨がへし折れる不快な音が響いた。
あの化け物たちの海を走り抜くには、一滴の迷いすらも許されない。間違っていたのは、俺自身だ。
「……誠、目ぇ覚ましたん!?」
パイプ椅子で身体を丸めていた菜奈が、弾かれたように跳ね起きた。一晩中付き添っていたのだろう、真っ赤に充血した瞳を見て、俺は「すまねえ」と言おうとしたが、喉がかすれて乾いた音しか出なかった。
夕刻。病室のドアが、不機嫌な金属音を立てて乱暴に開いた。
横西茜さん。岡山支部が誇る現役最高峰のプロペラ職人、通称「ペキさん」が、俺を殺すような冷徹な眼光で睨みつけていた。
「あんたが鎌倉の虚無にビビって、一瞬だけ恐怖という最低のノイズを出したせいでさぁ! アタシが三日三晩、指の皮が剥けるまであんたのアトモスに耐えられるよう霊子組成を叩き変えた最高の特製ペラが、台無しよ! 上田のボロ機体を背負っておきながら、そんな腑抜けたマブイを水面に晒すんじゃないよ!」
ペキさんはそれだけを吐き捨て、鋭く背を向け、扉を叩きつけるようにして去っていった。その重苦しい残響が、夕闇の迫る病室に長く澱んだ。
彼女の怒りの理由は痛いほどわかった。横西のプロペラは完璧だったのだ。間違っていたのは、俺自身が「横西茜の作った道」を、他人のやり方のままなぞって走ろうとしたことだ。借り物の翼では、あの化け物たちの海は走れない。
「誠……落ち込んじゅう暇はないきね」
菜奈が涙を拭い、タブレット端末を俺の前に差し出した。その手が、かすかに震えていた。
「瓜生くんはね、あんたが落水して救急車で運ばれた直後、大破した三十九号機の残骸をトラックの荷台に押し込んで、もう大阪へ向かったがよ。住之江の前検ピットの片隅で、あんたが絶対にベッドを抜け出して来るって信じて、不眠不休で作業しゆう。『あいつが博多の試走で出した野生の余白も全部、俺の方程式で完璧に調教してやる』って、ペラと骨格の新しい計算式を叩き直しゆうき」
最後まで言い終わった菜奈が、唇を強く噛んで窓の外を向いた。それ以上、何も言わなかった。
足元では、菜奈に隠れて連れてこられたスーが、前脚をベッドの縁にかけ、俺の動かない右手の甲に静かに顎を乗せていた。その小さな温もりが、肉体に残る落水の恐怖を、最後の一片まで溶かし尽くしていく。
頭で考え終わる前に、手が動いていた。
点滴の針を引きちぎる。管が逆流した自らの血で赤く染まる。骨の軋みをねじ伏せてベッドの縁に手をつく。俺と、瓜生と、あの満身創痍の三十九号機。持たざる三人の狂気と余白のすべてを掛け合わせ、完璧なゼロの領域へ到達しなければ、あの修羅の海では一歩も進めねえ。
「菜奈。住之江まで、連れていってくれ」
瀬戸内の泥水に呑まれた視界は、今、かつてないほど澄み渡っていた。住之江の地獄の蓋を抉じ開けるための、静かで凄絶な炎が、俺の瞳の奥底でギラギラと燃え盛っていた。




