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からくり競艇 ~黄金の波切り、魂のフルスロットル  作者: 水前寺鯉太郎
第1章:駆け出し編

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逆襲の号令

レーサーが水面の中に落ちてしまうケースはこの3つ。

■転覆

ボートがひっくり返ってしまうこと。

■落水

ボートからレーサーだけが水面の中に投げ出されること。

■沈没

ボートが沈んでしまうこと。他の艇とぶつかってボートに穴が開くとこうなる。これは待機行動時に起こることもある。

倉敷の夜は深く、どこまでも静寂に満ちていた。

 菜奈が「退院調整に行ってくるきね」とドアを閉めた後、病室には守屋あおいと俺の二人だけが残された。


 あおいはパイプ椅子に腰掛け、俺の体に巻かれた包帯をじっと見つめていた。何か言おうとするたびに薄い唇が戦慄き、言葉にならないまま止まる。その不器用な沈黙を見かねて、俺が先に口を開いた。


「児島のレースは、もう全部終わったのか」


「うん。最終十二レースのチェッカーが鳴ったわ」


「俊樹は」


「走ったわよ。結果はまだ知らない」


 短い言葉の往復。あおいはふと、自分の右手を見つめた。さっきから、俺の右手を無意識に両手で強く握り締めていた。気づいたら触れていた。それだけのこと。


 鎌倉明奈の「無」に呑まれて俺が水面へと大転覆したあの瞬間、競技モニターの前で呼吸を忘れ、悲鳴すら上げられなかった、あの胸の凍りつくような恐怖を。それがプロとしての戦慄なのか、もっと別の、歪な感情の形なのか、答えが出ないまま、今伝えないと二度と届かない気がして――。


 その瞬間、病室のドアが「ドン!」とけたたましく開け放たれた。


「誠! ちゃんと息しとるかバカチンがぁぁッ!!」


 西野貴志さんが高級明太子の桐箱を両腕に抱え、嵐のような博多弁と共に乱入してきた。後ろから横西茜さんと瓜生俊樹が続く。あおいは弾かれたように立ち上がった。


「……じゃあ、あたしはもう行くね」


 俯いたまま足早にドアへ向かうあおいの背中に、俺は声をかけた。


「あおい。……来てくれて、ありがとうな」


 振り返らなかった。ただ、遠ざかる背中が一瞬だけ小さく揺れた気がした。


 病室では西野さんが明太子を積み上げ、ペキさんが「病人に大声を出すんじゃないわよ!」と西野さんの頭をど突き、菜奈が呆れていた。その喧騒の中で、瓜生だけは窓際の暗い椅子に腰を下ろし、静かに外を見つめていた。


 一段落した後、西野さんが「住之江は本物の地獄たい。早う這い上がってこんか!」と不敵に笑い、ペキさんは一度だけ俺の頭を無造作に一撫でして出ていった。怒りと職人の照れ隠しが混ざった、不器用な激励だと分かった。


 最後に、誰もいなくなった病室で、瓜生が静かに立ち上がった。


「誠。児島の優勝戦、僕は四着だった」


 それだけ言って、少し間を置いた。


「……俺は一歩も立ち止まらない。お前が絶対にベッドを抜け出して来ると信じて、先に住之江へ向かう。最高の方程式を、引っ提げて待っていてやる」


 瓜生は椅子から立ち上がり、一言も言わずにドアを押した。廊下の足音が遠ざかり、消えた。

 夜明け。菜奈がどこからか強引に毟り取ってきた退院許可書を手に戻ってきた。足元ではスーが静かに俺の足首に鼻を寄せている。一歩歩くたびに、折れた肋骨が肉の内側を突き刺すような激痛が走る。


「誠、山陽新幹線の始発が出るきね。大丈夫じゃねえろ?」


「大丈夫じゃねえよ。敗北の痛みを忘れる前に、行くしかねえんだ」


 菜奈は唇を強く噛み締め、俺の傷だらけの右手を両手でそっと包み込んだ。その小さな掌が、小刻みに震えていた。


「……うちは、あんたが水の中に消えるのだけは、絶対に嫌やき。もう、大切な人が水面に呑まれるのを見るがは……二度と嫌なんよ」


 俺は静かに微笑み、その震える手を優しく握り返した。


「死なねえよ。住之江で、あの不眠不休の電算士が待ってるんだからな」


 菜奈は一瞬だけ呆れたように笑い、それからぐしっと鼻をすすった。スーを抱き上げ、顔を隠すように俯いた。


「ほんなら、今すぐ駅へ向かうがじゃ。住之江に着いたら、名物の熱いホルモン煮、底なしに奢ってあげるきね」


 山陽新幹線の車窓を流れる夜明けの瀬戸内を、俺はただ見つめていた。痛みが走るたびに、児島の水底の冷たさが蘇る。だがその恐怖は今、静かな燃料に変わっていた。


 大阪・住之江競艇場。

 競艇の聖地は、前検日の午前中だというのに、肌を刺すような濃密なマブイの火花が空中をパチパチと飛び交っていた。コンクリートの護岸に囲まれた、日本一硬いプール水面。全国から集まった十万超えの修羅たちが放つプレッシャーの層が、逃げ場のない空間にズシリと澱んでいる。


 痛む体に鞭を打ち、ピットの最奥、最も日当たりの悪い片隅へと足を進める。


「――遅いぞ、誠」


 煤とオイルで顔を真っ黒に汚した瓜生が、工具を握りしめたまま、眼鏡の奥の瞳をぎらつかせた。その背後には、下関、丸亀、児島での死闘を経て、全身に継ぎはぎの装甲を纏った異形の三十九号機が静かに鎮座していた。ペキさんが三日三晩叩き直した特製ペラが、心臓部に妖しくセットされている。


「お前が児島で出した『恐怖のブレ』のデータも全部、俺の新しい数式にブチ込んでおいた。これなら鎌倉明奈の真空の底でも、俺たちのマブイは一滴もねじ曲げられない」


 瓜生は獰猛に唇を歪め、絶縁スパナを俺の手元へと放り投げてよこした。受け取った掌に、三十九号機が「待っていたぞ」とばかりに、深海のように冷徹な同期の脈動を返してくる。


「待たせたな、瓜生。……そして、三十九号」


 俺はヘルメットを掴み、聖地の暗い水面を見据えた。敗北の屈辱も、死への怯えも、すべてはあの瀬戸内の泥水の中に置いてきた。ここにあるのはただ一つ。あの頂点の怪物どもを、俺たち持たざる三人の狂気と余白で、残らず引きずり下ろして喰らい尽くすという、凄絶な逆襲の意志だけだ。


「行くぞ。俺たちの、本当の戦いだ」


 住之江のコンクリートに囲まれた修羅の海が、俺たちを歓迎するように、獰猛な牙を剥いて激しく波打ち始めた。

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