怪物の孵化
展示タイムと展示航走
展示タイム
周回展示2周目のバック側の直線150mのタイム。タイムが早ければ、直線での伸びがいいということになる。展示航走が終わった直後に発表される。
展示航走
本番レースの直前に、レースに出走する各レーサーが、予想の参考やボートやモーターの調子をお客様に見てもらうために、コース取りやスタートの練習をし、全速力でレースコースを2周すること。展示航走には、スタート展示と周回展示と呼ばれる2種類の展示がある。
八月中旬、大阪・住之江競艇場。前検日の午前。
俺は折れた肋骨を特製テーピングでガチガチに固め、動かすたびに骨の髄まで激痛の走る左腕を抱えながら、整備場の片隅に立つ瓜生の元へと歩き進んだ。
「遅いぞ、誠」
煤とオイルで顔を真っ黒に汚した瓜生が、不敵に眼鏡の奥の瞳をぎらつかせた。その背後に、全身に継ぎはぎの装甲を纏った三十九号機が静かに鎮座している。ペキさんの特製ペラが、心臓部に妖しくセットされていた。
「最高の相棒だな、瓜生」
俺は血の滲む右手で、三十九号機の冷たいカウルにそっと触れた。住之江の予選での慢心を、児島での恐怖のブレを、この相棒はすべて鉄の体に刻んで俺を待ってくれていた。深海のように冷徹な同期の脈動が、掌に静かに返ってくる。
「おい、あんたが噂の速水誠くんやろか」
地鳴りのような太い声が、背後の闇から落ちてきた。振り返ると、前検日の喧騒を無視して、極彩色のシャツを無造作に纏った巨漢が立っていた。
大峰幸太郎さん。佐賀が誇る絶対王者、コアマブイ値八万三千。住之江の頂点の一角だ。その分厚い掌が、三十九号機へ向けて静かにかざされた瞬間、住之江の硬質な空気が目に見えて歪み、カウルから立ち上っていた淡いマブイの気配が一瞬で白く揺らめいた。直接は触れない。ただ空気の層を隔てて、かざしただけだ。かざした掌が、一瞬だけ止まった。
「……なるほどね。あんたのマブイ、今は芯が抜けて霧みたいにバラバラに空中分解しとる。けどな――あんたのマブイは消えかかっとるんじゃなかばい。殻の中で、完全に形を変えよるとよ」
大峰さんはそれだけを告げ、圧倒的な質量感を残したまま、悠然とピットの奥へ去っていった。扉が閉まる直前、同行していた若手レーサーが不満げに呟くのが聞こえた。
「師匠、あんな一千の、怪我まみれの落ちこぼれに、なぜ声を……」
「バカ。消えかかっとるんじゃなかたい。己の命ばチップにして、本当の"無の繭"ば編んどる最中たい。本物の怪物はな、あがん静かに育つとよ。余計な言葉で、あの純粋な孵化を汚したらいかんばい」
王者の残響が消え去った後も、俺の胸の最深部には、重く、確かな波紋が残されていた。
――そうか。俺が、あいつを裏切ったんだ。
鎌倉さんの「完璧な無」に触れた瞬間、恐怖に負けて力に逃げた。その濁ったノイズを、三十九号機にぶつけた。機械はただ、俺の歪みを鏡のように映し出したに過ぎない。
逃げたんじゃねえ。繭だったんだ。三年前に水底へ沈めたあいつへの答えも、この繭の中で形を変えながら、まだそこにある。あの十万超えの化け物どもを内側から喰い破るための、本当の"無"に籠ろうとしていたのだ。
ピットの裏口では、スーを抱きかかえた菜奈が、引き締まった表情で俺たちを見つめていた。もう何も言わなかった。その佇まいがすべてを語っていた。
「瓜生、最終チェックだ。絶縁スパナを出してくれ」
瓜生は無言でポケットから純度九九・九パーセントの銀色の工具を取り出し、俺の右手に握らせた。
カチリ、と静寂のピットに冷たい金属音が響く。
明日、住之江オールプロ特選・太閤若手激突戦の幕が上がる。十万超えの怪物たちが手ぐすね引いて待つ、日本一硬いプール水面だ。
俺の瞳は、もう一ミリも揺らがなかった。激しく燃え盛る炎ではない。すべての光を吸い込み、周囲の熱を奪い尽くす、深海の底の静寂。
「行こう、瓜生。……地獄の最深部へ」
その声は、これまでのどの言葉よりも静かで、そして確かだった。
整備場の片隅で、繭の中の三十九号機が、静かに夜を待っていた。




