機械仕掛けの虚無
カド
スタートラインに対して、いったん後ろに引いてから思い切り助走してダッシュスタートする艇のうち、一番内側の艇のこと。
八月中旬、大阪・住之江競艇場。準優勝戦当日。
夜の住之江は、異様なほど静かだった。カクテル光線がギラギラと水面を照らしているのに、ピット全体に充満しているのは熱気ではなく、得体の知れない「圧」だ。全国から集まった十万超えの修羅たちが放つマブイが、互いに干渉し合いながら、逃げ場のない空間に淀んでいる。住之江の夜は叫ばない。ただ、静かに命を削りに来る。
準優勝戦、第十二レース。俺――速水誠は、三十九号機のカウルに掌を当てていた。エンジンは生き物のように静かに、しかし冷徹に鼓動している。前検日に大峰さんから言われた「無の繭」という言葉の真意を、俺はまだこの指先の肉だけで静かに確かめている最中だった。
「一コース、鎌倉明奈」
通信機越しに、瓜生の声が張り詰めた硬さで飛んできた。
「奴の静寂はゼロじゃない。接近する相手のマブイを内側へ強制的に吸い込んで無効化する、完璧なマイナスの捕食圏だ。薄くなればなるほど、自ら飲み込まれにいくぞ」
テーピングでガチガチに固めた胸の奥が、トク、と冷たく跳ねた。折れた肋骨が肉を刺すが、恐怖などとうに消え失せている。
「行くぜ、三十九号。……俺たちの真実を見せてやれ」
全艇がスタートラインを超えた瞬間、鎌倉さんの七万が音もなく満ちた。住之江の水面全体の因果律が、彼女の絶対的なマイナスの静寂によって一瞬にして支配されたのだ。
三十九号機のハイドロバルブが、ガガッと異音を立てて流路を狂わされる。俺の一千という微小な灯火が、七万という底なしの真空の中で、進むべき方向を完全に見失った。
消された。
児島で大転覆したあの日と同じ、魂ごと掻き消されるような喪失感が全身を貫く。手の感覚が消え、世界が白く遠ざかっていく。死ぬ、と思った。本当にそう思った。
それでも、歯を食いしばって平野さんの声を手繰り寄せた。消そうとするな、海と同じ密度に薄くなれ。俺はマブイを極薄の膜のように引き延ばした。
――逆だった。
薄くなった余白へ、鎌倉さんの静寂が濁流のように一気に満ちてきた。引き延ばしたマブイのすべてが、彼女の真空に飲み込まれていく。この化け物の前では、薄くなればなるほど消滅する。
第一ターンマーク。漆黒の機艇が住之江の水面そのものと融け合うようにして、音もなく最内の最短航路を制圧していく。その機首が一瞬だけ、大外の俺の方を向いた気がした。捕食者が獲物を確認するような、無感情の一瞥。
俺のマブイのすべてが、完全に吸い尽くされていた。制御を失った機体が、大外のコンクリート防波堤へと真っ直ぐに流れていく。
「緊急停止ッ!!」
感覚の消えた右手で、緊急停止レバーを引き絞った。凄まじい金属摩擦音と共に、三十九号機は防波堤のわずか数メートル手前で水煙を上げて止まった。
失格でも、大転覆でもない。機体も壊れていない。ただ――世界の最前線から、何もできずに完璧に取り残された。
白い水煙の中で、俺はしばらく動けなかった。ハンドルを握ったまま、ただそこにいた。
ピットへ戻ると、瓜生が青ざめた顔で待っていた。端末の画面には、鎌倉さんの絶対座標の影に捕食され、完璧なマイナスを刻んで死に絶えた俺の因果律グラフが映し出されている。
「お前の一千の波形が、一瞬にして完全に消失した。……僕の数式じゃ、答えが出ない」
瓜生は端末をゆっくりと閉じ、眼鏡を外して目を伏せた。その沈黙の重さに、俺は何も返せなかった。ピットの裏口では、菜奈がスーを強く抱きしめながら俺たちを見つめていた。スーだけが、三十九号機の方をじっと向いたまま、動かなかった。
静まり返った格納庫。俺は一人、三十九号機の錆びたカウルへ掌を静かに当てた。エンジンは何事もなかったかのように、冷徹に、厳かに静まり返っている。
そこで、俺はある圧倒的な事実に気づいた。
――あの瞬間、お前だけがいた。
俺という不純物が完全に消え去った瞬間、三十九号機は己の鉄のロジックだけで、あの化け物の引き波を素通りして、ただ真っ直ぐに走っていた。
一千しかない命の火を薄く引き延ばすんじゃない。勝ちたいという感情も、恐怖というノイズも、俺という人間の存在そのものを完全に消し去り、機械そのものの鉄のロジックへと己をすべて明け渡す。それが、三年前に水底へ沈めたあいつへの答えでもある。あの日俺が失ったものの重さを、このゼロという形で、初めて走りに還元できる。
鎌倉明奈の真空すら素通りする、本当の意味での「真なるマブイゼロ」。
暗闇の中で、三十九号機が静かに脈打っていた。繭は、もうすぐ割れる。




