屍の旋回
深イン
前づけ艇などの影響などでインの艇が早めにスタート方向に舳先を向け、助走距離が短くなった状態のこと。深インになればなるほど助走距離が短くなり不利とされる。
オールプロ特選・太閤若手激突戦。翌日の夜。
大時計の針が真上を指し、六艇の爆音が住之江のコンクリート護岸を激しく震わせた。
第一ターンマーク。俺――速水誠の一千のマブイは、二つの深淵の狭間に挟まれた瞬間、内側から容赦なく捕食され、霧散した。一コースの鎌倉明奈さんの七万が作り出す完璧なマイナスの捕食圏。そしてその外側から、大峰幸太郎さんの八万三千の「負の重力圏」が周囲の水面をごっそりと歪めて引き寄せていく。二つの超質量が生み出す、人間の一千が生き残れるはずのない消滅の回廊だ。
三十九号機のハイドロバルブが、ガガッと異音を立てて流路を狂わされた。指先から体温が急速に奪われていく。意識が遠ざかる。心臓が止まる。
瓜生の絶叫が、遠くから届いた。
『バイタル消失! 艇を捨てろ、死ぬぞッ!!』
だが死の淵へと引きずり込まれるスローモーションの視界の中で、俺の右手の甲は確かに感知していた。三十九号機の「鉄の意志」を。
(……待て。お前、まだ走ろうとしてるな?)
俺という不純物が完全に消え去った、あの一瞬。三十九号機は、己の鉄のロジックだけで鎌倉さんの引き波を素通りし、自らの意志で前へ進もうとしていた。
一拍の静寂。
だから消えるしかない。速水誠という人間のノイズそのものが、この機体の邪魔だったんだ。三年前に水底へ沈めたあいつへの答えも、きっとそこにある。勝ちたいという感情も、死にたくないという恐怖も、すべてを完全に消し去り、機械そのものの鉄のロジックへと己のすべてを明け渡す。真なる「マブイ・ゼロ」。
俺はステアリングを握る両腕の力を完全に抜き、スロットルを引き絞る指の意志すらも放棄した。
――凄絶な、真の静寂。
完全に沈黙していたはずの三十九号機の心臓部が、人間のマブイに頼らない、機械純度百パーセントの脈動をドクン、と爆発させた。曲がるはずのないチルト三・〇の異形のハルが、無人で動いているかのような不気味な滑らかさで、鎌倉さんの真空の底と大峰さんの負の重力圏の「真ん中」を、針の先ほどの隙間に滑り込むようにして切り裂いた。
カウル越し、先行していた鎌倉さんの黒い瞳が見開かれた。声はなかった。ただ、七万の完璧な無に、初めて本物の戦慄が走った。大峰さんの巨躯が一瞬だけ硬直し、そのまま視線だけがこちらを追った。前検で「静かに育つ」と言い残した王者が、その予言の答えを今、目撃していた。
人間の感情を完全に排除し、純粋な鉄の結晶となった三十九号機は、二人の怪物の引き波を逆に潤滑油へと変え、コンクリート壁のわずか数センチ手前で、あり得ない角度のインブイ刺しを敢行した。
だが肉体への負荷はあまりにも致命的だった。機械の奴隷となった俺の肋骨がメリメリと激しい悲鳴を上げる。口内から溢れた鮮血がシールドを赤く染めた。
チェッカーフラッグが夜空に翻った。二着。鎌倉さんに肉薄する、二着だ。
ピットへ帰投し、カウルを外した俺の姿を見て、瓜生は手にした端末を床に落とした。それから一歩も動けなかった。因律グラフは、完全な死の水平線を示したままだ。
「誠……心音すら止まっていたんだぞ……!」
駆け寄ってきた菜奈が、言葉を出せないまま俺の手を両手で包み込み、その温かさだけを確かめるように動かなかった。控室から飛び出してきたスーが、俺の手元へ温かい鼻を押しつけた。その命の温もりだけが、機械になりかけた俺の魂を、かろうじて人間の世界へと繋ぎ止めていた。
俺は血にまみれた唇を歪めた。公式記録は二着。だが、あの頂点の怪物たちが、今夜初めて「戦慄」した。それだけで十分だ。
(――俺が消えた時、あいつは最強になる)
あの日、水底へ沈めたあいつへの答えを、俺はまだ水面でしか出せない。だから行く。自分自身を完全に殺して、純粋な鉄の怪物として蘇る。
持たざる三人の狂気の終着点。十万超えの修羅どもをまとめて奈落の底へ叩き落とすための、最も凶悪な逆襲のゲートが今、完全に開いた。




