潜水旋回
前付け
待機行動でコース取りの攻防の際、外枠の艇が大きく回り込んでほかの艇の前につけ、インコースを取ろうとする戦法。前づけでインコースを取ると、スタートラインに向かう時の助走はどうしても短くなり、スタートが難しくなる。
住之江から、二ヶ月が経っていた。
十月の下関、復帰戦の優勝戦前夜。夜気は皮膚ではなく、折れた肋骨の奥を直接削り取るような冷たさだった。俺――速水誠は、冷たい潮風が吹き込む無人のピットに、ただ一人で佇んでいた。三十九号機のカウルにそっと右手を当てる。何も考えない。ただ鉄の冷たさを確かめていた。
住之江での息の詰まる敗北が、未だに指先の皮膚の裏に疼いている。鎌倉さんの真空に自ら貪り食われた。しかし乗り手の魂を完全にロストしたあの極限の瞬間、三十九号機だけは鉄の慣性だけで水面を走り続けていた。あの発見が告げていた。機体が「鉄として」走るなら、逆に沈み込ませればいい。水面との接地面積を最大化する、負の骨格へと。
俺はチルトレバーへ静かに手をかけた。構造上の最下層――「マイナス〇・五」へと、冷酷に押し下げていく。直線の伸びを完全に捨てる、命を賭けた博打だった。
翌晩、優勝戦の水面。一コースには大峰幸太郎さん。八万三千のマブイを誇る、この水面の絶対的な支配者だ。
大時計の白針が真上を指したその瞬間、俺は脳内のスロットルを完全に「無」へと叩き落とした。マブイ・ゼロ。勝ちたいというエゴも、肋骨の激痛も、すべてが内側から急速に凍りついて消えていく。俺の肉体は今、三十九号機という鉄の怪物のパーツへと成り下がっていた。
インコースから大峰さんの八万三千が爆発し、下関の水面を真っ二つに割る引き波が全艇を外へと弾き飛ばした。俺は内側への最短航路を完全に遮断され、大外へ追いやられる。遥か前方の大峰さんの背中は、絶望的に遠い。だが、届かなくていい。三十九号機の鉄のロジックが、俺の脳内に直接そう告げていた。
チルトマイナス〇・五の艇体は、引き波を受けても宙へ跳ね上がることはなかった。限界まで水面へ圧着されたハルが、引き波の「真下」へと、鉛のように深く、鋭く沈み込んでいく。水面の抵抗を消すんじゃない。引き波の強烈な下向きの圧力を、逆に「上からの蓋」として利用し、水底のわずかな隙間を弾丸のように突き進む。
――『潜水旋回』。
相手の暴力そのものを足場にして、内部を突き進む。六号艇は、大峰さんの最内を、音もなく切り裂いた。
「なっ……!? 誠くん、あんた俺の引き波の下を走っとるばい!?」
大峰さんの驚愕の絶叫を水底へ置き去りにし、三十九号機は第一マークを先頭でブチ抜いた。
だがその瞬間、完全に光を失い機械と同化しかけていた俺の脳裏に、菜奈の声が鮮烈に割り込んできた。
『誠……あんた、今、水の上で完全に消えちょった! 人間のままで勝ってよ……! うちの知っちゅう誠が、そのまま機械になって消えてしまうがは、絶対に嫌やきね……!』
現実の錨が、俺の心臓を強引に撃ち抜いた。
機械のパーツで終わってまるかよ。俺は、人間だ。三年前に水底へ沈めたあいつへの借りも、機械じゃ返せない。菜奈のすべてを奪ったこの水上のからくりを、人間の、俺たちの執念でぶち壊すためにここへ来たんだ。
「おおおおおおおッ!!!」
俺は心停止寸前だった一千のマブイを、自らの魂の咆哮とともに、血管が破裂するほどの圧力でボイラーへと叩き込んだ。かつての逆噴射とは逆向きに、内側へ、深く、根元へ向かって。恐怖のブレも、泥臭い感情のすべてを超高圧のアトモスに変えて、力ずくで叩き込む。機械の本能と、人間の狂気が完全に融合した理外の超旋回。三十九号機はカウルをメリメリと引き裂かれながらも、下関の三角波を完全にねじ伏せた。
チェッカーフラッグが夜空に翻った。六号艇、一着。
ピットへ帰投すると、瓜生が端末を放り出し、見たこともない熱い涙を流しながら俺の肩を狂ったように叩いた。
「重き無の領域だ。お前は引き波の内部を推進力に変えた。……僕の電算に、そんな因果律は組み込まれていなかった」
「次こそ本当の決戦だ。住之江で、鎌倉明奈が待っている」
「今度こそ、俺たちの歯車で、あの真空をブチ抜いてやるよ」
大峰さんが豪快な笑顔で近づいてき、俺の背中を叩いた。怪物を見出した歓喜の顔だった。
「俺の八万三千の引き波を丸ごと足場にするバカがおるとは思わんかったたい! その牙、鎌倉の姉さんにもぶつけてこんか!」
夕方、ピットを出ると、遊歩道の欄干に守屋あおいが佇んでいた。潮風に長い髪を揺らしながら、静かに俺を見つめ返す。
「一着だったわね。……あの第一マークの旋回、何かが完成されつつあるわよ」
「次の住之江で、すべてが決まる」
「――負けないで」
「負けるかもしれない。でも、すべてを賭けて突っ切ってくるよ」
二人は並んで、夕闇の彼方で赤く燃え上がる難波への海の残光を、静かに見つめ続けた。




