方程式の裏返り
スリット
スタートタイミングを測定するために撮影された写真上に、一定の間隔で引かれたラインのこと。
大阪・住之江競艇場、G3新鋭王座決定戦――準優勝戦、第十二レース。
カクテル光線がどす黒い秋の水面をギラギラと照らすピットで、俺――速水誠は、三十九号機のチルトレバーを確認していた。数値は「マイナス〇・五」。直線の伸びを完全に捨て、水面との接地面積を最大化する負の骨格。『潜水旋回』の設定だ。
『全艇のスタートタイミング、電算の解析は終了している』
通信機越しに、瓜生の声が届いた。
『四万五千のエネルギーが第一マークの一点に集中した直後、水面にはコンマ数秒の枯渇の揺らぎが生じる。今日のビル風の誤差を考慮すると、俺の計算の余白はわずか十七パーセントだ』
「上等だよ。今日は俺たち持たざるルーキーで、最内の最短航路を完全に制圧してワンツーフィニッシュを決めてやるぞ」
『不可能な確率を並べるな。……行くぞ、相棒』
ゼロ――! 六艇が住之江の硬いプール水面を一斉に蹴り出した。
インコースから他艇の放つ凄絶なマブイが爆発し、二つの巨大な質量が激突して凶悪な三角波を仕立て上げた。その渦中、俺は三十九号機を力ずくで水面へと押し付けた。加速じゃない。完璧な接地。波の下へ深く潜水する。一千のマブイを極限まで濃く重く沈め、住之江の水底の重力と同化させる。乗り手が機械の邪魔をしなければ、からくりは必ず応えてくれる。
第一ターンマーク。先行艇が遥か前方でターンラインを抉る。俺は大外からその引き波の最深部へと潜り込んだ。流体力学の下向きの圧力が、三十九号機を最内の最短コースへと押し運んでいく。勝機が見えた――そう確信してスロットルを踏み込んだ瞬間だった。
何かが、最内を通り抜けた。
音がなかった。水飛沫もなかった。カクテル光線の死角をすり抜けた何かが、俺の機首の数センチ内側を、摩擦の絶叫すらなく通過していた。一体、誰が――。激しいチェッカーフラッグが夜空に翻った。
「一着、四号艇」
そのアナウンスを聞いた瞬間、全身の血が一度止まった気がした。
「完全にやられた」
ピットへ帰投し、カウルを外した瓜生が、見たこともない不敵な笑みを浮かべていた。俺より先に辿り着きやがった。悔しいような、誇らしいような、言葉にならない感情が胸の奥で交差した。
「……あの大混沌、どうやって読み切ったんだ」
「読んでなんかいないさ」
瓜生は俺の右手を、絶縁スパナごと強く握り返した。その手のひらが、興奮で小刻みに震えていた。
「住之江の水底の脈動が一つだけ、電算の枠外の方向を指していた。……僕はただ、勝ちたいという人間のノイズを消して、水の意志に従ってそこへ機体を添えただけだ。お前が三十九号機とやってきた対話の、それが方程式の裏返りさ」
「計算じゃ、なかったのか」
「ああ。僕の組み立ててきたすべての計算式の、完全な外側だったよ」
一拍の沈黙。瓜生の眼鏡の奥で、何か柔らかいものが一瞬だけ揺れた。
「……明日の優勝戦、待っているぞ。――師匠」
「今、確実に茶化しただろ、お前」
「気のせいだ。非論理的な発言は記録に残す必要性がない」
マブイを持たないからこそ聞こえた、鉄と水の真実の声。俺たちが血を流しながら積み重ねてきた狂気が、今、相棒の魂をも完全に覚醒させたのだ。
「見とったぞ、ルーキーども!」
地鳴りのような太い声と共に、大峰幸太郎さんが俺たちの前に立ちはだかった。いつもの極彩色のシャツが、返り波で濡れている。
「お前ら二人で、完璧な"無の繭"を編み上げとるたい。一千とゼロのまま、本物の怪物の孵化をやりよる。明日の優勝戦、あの鎌倉の姉さんの真空を、お前らのその異形の牙でまとめて引きずり下ろしてこんか!」
王者の言葉の重圧が、空気を押し変えた。ピットの裏口では、スーを抱きかかえた菜奈が、唇をきつく結んで俺たちを見つめていた。それだけで十分だった。
夜。静まり返った住之江のピットで、俺はふとスタンドの最上段を見上げた。カクテル光線の届かない暗闇の中に、ぽつりと一つの人影があった。顔のディテールまでは視認できない。しかし全身の皮膚が、あの唐戸市場や児島で味わったような、圧倒的な真空の圧を感知して激しく震えた。
鎌倉明奈。世界の女王が、ただ一人、無言のまま、俺たちの進化の産声をじっと見つめていた。
やがて人影はスタンドの階段を、一度も振り返ることなく下りていった。
「誠。分かっているな」
隣から、瓜生の静かな声が落ちた。
「あの化け物は、俺たちの牙の完成をすべて分かった上で待っているんだ。……望むところだね」
「ああ。恐怖もエゴも、すべてはあの瀬戸内の泥水の中に置いてきた」
俺は三十九号機の冷え切ったカウルを強く叩いた。手にかかるクランクの沈黙が、俺の血流と寸分違わず同期する。
「今度こそ、俺たち持たざるバディのすべてを賭けて、あの真空の王座をブチ抜いてやるよ。行くぞ、俊樹」
二人は黙ったまま、数時間後に迫る最終優勝戦の、白く濁った住之江の水面を見ていた。




