無の繭、ひらく時
大時計
正式名称は「発走信号用時計」。どのボートレース場にも必ずある、レースの要となるのがこの大時計。スタンド中央の水面寄りに設置され、スタートライン手前40mラインの中央を向いている。直径も3m以上と決まっている。スタート2分前を知らせる2分前表示灯と、1回転1分の白針、1回転12秒の黄針からなる。
十一月上旬、大阪・住之江競艇場。
G3新鋭王座決定戦の幕が閉じてから数時間の深夜。住之江の選手宿舎、薄暗いモニター室で、俺――速水誠は電算画面を前に静かに腕を組んでいた。
隣では、優勝戦で水の脈動を完璧に捉え、俺の潜水旋回のさらに内側を音もなくブチ抜いて一着をもぎ取った相棒――瓜生俊樹が、絶縁スパナを握ったまま次節のエンジンデータを無言で確認している。コンマ数秒の差で差し切られた悔しさと、持たざる二人が聖地のプール水面を支配したワンツーフィニッシュの残響が、まだ二人の間の空気に重く漂っていた。
だが、その日の住之江を本当の意味で圧殺したのは、俺たちではない。同節に開催された周年記念の優勝戦で、絶対女王・鎌倉明奈さんのコアマブイ七万の真空が、対峙するすべての艇を存在ごと消し飛ばした。ピットの特等席からその光景を網膜に焼き付けた俺たちは、格の違いに深く戦慄していたのだ。今の俺たちの走法では、あの真空の底へ届く前に消滅させられる。
「もうすぐ始まるき、画面切り替えるよ」
菜奈がスーの頭を優しく撫でながら、タブレットの映像を大型モニターへ転送した。映し出されたのは「児島オールレディース――勝負駆け・最終日第十二レース」の生中継。一号艇の欄に、守屋あおいの名前が赤く刻まれていた。
ピット裏のカメラがあおいの横顔を捉えた瞬間、俺の胸の奥が激しく締め付けられた。倉敷の病室で、俺の右手を握りしめていた彼女の指先の温度がよみがえる。あの夜の不器用な沈黙と、画面の向こうで今まとっている昏い執念は、同じ人間が持つものとは思えないほど遠かった。
「……完全に雰囲気が変わっている」
菜奈が息を呑んだ。
俺と瓜生は、何も言わずにただ画面を睨み据えた。
『――大時計、始動!』
満潮の児島水面は、瀬戸内のうねりが激しく荒れ狂っていた。四コースのA級レーサーが一万八千のマブイ圧を以て、スリットスタートからあおいへと容赦なく襲いかかる。誰もがあおいの圧死を確信したその瞬間だった。
あおいは一歩も逃げなかった。機艇の底板から、鈍い赤褐色のマブイの予波が、じわじわと児島の黒い海へと染み出し始めたのだ。
「艇が水底へ沈んでいる……!」瓜生が流体数値を凝視しながら呟いた。「水面への食いつきの質量が、完全にロジックを超えている」
「展示航走のデータで見た。備前焼のコーティングペラだ」
俺は低く応えた。
「地元の赤土の分子をプロペラの表面に焼き付けて、直線の伸びを完全に捨て、瀬戸内の重い水を掴んで下へ潜るために叩き出したセッティングだ。あの女は職人の誇りと血涙を以て、俺たちの重き無の軌道を完全に再現してやがる」
画面の中で、あおいの赤褐色の機体は、捲りの熱圧に押し潰される直前、その衝撃波の真下へと陶器を捏ねるような重量感で滑り込んだ。相手の暴力そのものを足場にして、内部を突き進む――俺の潜水旋回だ。
重厚なチェッカーフラッグが振られた。一着、守屋あおい。
「……強くなったな、あおい」
俺の口から漏れたのは、ただそれだけだった。倉敷の病室で握りしめてきた指先の温度が、今、画面の向こうの走りと繋がった。それが嬉しいのか悔しいのか、自分でもよく分からなかった。ただ、胸の奥で何かが激しく燃え始めるのを感じた。
瓜生が端末を閉じ、深い沈黙の後に告げた。
「ヤングダービーへの勝負駆けは成功した。来春、この住之江で開催されるプレミアムG1。鎌倉明奈という女王の首を獲るために、推薦枠から這い上がってきた同世代の化け物どもが、全員ここに揃うぞ。平田千夏、守屋あおい、そして全国の若き牙が」
画面に並ぶ名前を、俺は一つずつ目で辿った。どれも、ただの名前じゃない。
ピットの裏口から戻ってきた菜奈が、スーを強く抱きしめたまま、一歩も動かずに俺たちを見つめていた。その目が言っていた。行け、と。
鎌倉さんの放つ、すべてを喰らう完璧な真空。それを底から引きずり下ろすための牙を研ぐのは、俺たちだけじゃない。あおいも、千夏も、全国の持たざるルーキーどもが、この聖地に集結する。
「上等だ。まとめてブチ抜いて、あの女王の目の前まで駆け上がってやるよ」
俺は右手で、瓜生の手にある絶縁スパナを強く握り直した。カチリ、と静まり返ったモニター室に冷たい金属音が響く。
「行くぞ、俊樹。俺たちの、本当の方程式の完成だ」
難波の頂点へ向かって、持たざる者たちの剥き出しの歯車が、美しく噛み合い始めていた。




